fc2ブログ

953.『一念多念文意』を読む(19)

20230609オオキンケイギク  20230609オオキンケイギク2

 引き続き聖人が記された『一念多念文意』を学びますが、聖人の御文は長いものなので、今回は善導大師の文の前半について学ぶこととします。御文と現代語訳です。

  また現生護念の利益ををしへたまふには、「但有専念 阿弥陀仏衆生 彼仏心光 常照是人 摂護不捨 総不論照摂 余雑業行者  此亦是 現生護念 増上縁」(観念法門 六一八)とのたまへり。
 この文のこころは、「但有専念阿弥陀仏衆生」といふは、ひとすぢに弥陀仏を信じたてまつると申す御ことなり。
 「彼仏心光」と申すは、「彼」はかれと申す、「仏心光」と申すは、無碍光仏の御こころと申すなり。
 「常照是人」といふは、「常」はつねなること、ひまなくたえずといふなり。「照」はてらすといふ、ときをきらはず、ところをへだてず、ひまなく真実信心のひとをばつねにてらしまもりたまふなり。かの仏心につねにひまなくまもりたまへば、弥陀仏をば不断光仏と申すなり。「是人」といふは、「是」は非に対することばなり。真実信楽のひとをば是人と申す、虚仮疑惑のものをば非人といふ。非人といふは、ひとにあらずときらひ、わるきものといふなり、是人はよきひとと申す。


 「また善導大師は 『観念法門』 の中で、 現生護念の利益をお教えになって、 「但有専念 阿弥陀仏衆生 彼仏心光 常照是人 摂護不捨 総不論照摂 余雑業行者  此亦是 現生護念 増上縁 (ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、 かの仏心の光、 つねにこの人を照らして摂護して捨てたまはず。 すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜず。 これまたこれ現生護念増上縁なり)」 といわれている。
 この文の意味について、 「但有専念阿弥陀仏衆生」 というのは、 ひとすじに阿弥陀仏を信じたてまつるというお言葉である。
 「彼仏心光」 というのは、 「彼」 は 「かれ」 ということであり、 「仏心光」 というのは、 無礙光仏のお心ということである。
 「常照是人」 というのは、 「常」 は 「つねに」 ということであるが、 絶え間なくということである。 「照」 は 「てらす」 ということである。 どのような時も嫌ったりすることもなく、 どのような所も避けたりせず、 絶え間なく真実信心の人を、 つねに照らしてお護りくださるのである。 阿弥陀仏はそのお心のうちに摂め取って、 つねに絶え間なくお護りくださるので、 阿弥陀仏のことを不断光仏と申しあげるのである。「是人」 というのは、 「是」 は非に対する言葉である。 真実の信心を得ている人を是人という。 うわべを飾っていつわり、 本願を疑っているものを非人という。 非人というのは、 人ではないと嫌い、 悪いものというのである。 是人とは、 よい人ということである。」

 今回の部分で聖人は、善導大師が「他力の信心を得た人は、阿弥陀さまの光の中に摂め取られ、決して捨てられることがない」と説かれたことを紹介されます。
 聖人は、阿弥陀さまの「心光」が「是人」を常に照らすと記されます。この「是人」は「この人」であり、文脈では「ひとすじに阿弥陀さまを信じる人」なのですが、聖人は「是」という語は「非」に対する言葉だとされます。そして、「是人」はよき人、他力信心の人であり、阿弥陀さまのお救いの光の中に摂取され、一方「非人」は本願を疑うもの、自力信心の人であり、そのような人は阿弥陀さまのお救いの対象とはならないのだと説かれます。
 
 ここでちょっと、これまで学んできた部分について振り返ってみたいと思います。
 といいますのは『一念多念文意』は、隆寛律師の取り上げられた文を親鸞聖人が私たちに分かりやすいようにと説いていただいているものですが、ここにきて律師の取り上げられた文と聖人が記された御文との関連、聖人の御文相互のつながりが見えなくなったような感覚を持つようになったからです。
 このシリーズの最初にも記しましたように、聖人は律師が取り上げられた文(経文)以外の文も引用して、私たちに理解できるようにとされたのですが、その相互の関わりをつかみにくく、まるで深い森に迷い込んだように感じることがあります。

 そんなことから、今回その全体像を把握したいと思い整理してみました。律師の取り上げられた文には数字の番号を、聖人が記された御文については漢数字の番号(『註釈版聖典』の番号です)を振ってみました。

 隆寛律師は最初に「多念は一念のつもりなり」と記し、一念、多念に分かれて争うことは間違っているとされ、次の文を取り上げられました。
1.「恒願一切臨終時 勝縁勝境悉現前」(『往生礼讃』)
 親鸞聖人は、これを受けて「一念をひがごととおもうまじき事」としてこの文を記されてその内容をお説きになりました。(一)

 次いで律師は次の経文を取り上げられます。
2.「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」(『無量寿経』下)
 聖人は、この経文(本願成就文)を記してその内容について説かれます。(二)

 これ以降聖人は、律師の『一念多念分別事』にはない文を引用して、上記の「本願成就文」の中の「即得往生 住不退転」について説かれます。
 まず聖人は、『無量寿経』(上)の第十一願(必至滅度の願)などを引かれます。(三)
 次いで、『無量寿経』(下)には念仏の人を「次如弥勒」と説かれていると記されます。(四)
 さらに聖人は、『浄土論』を引かれ(五)、王日休師の『龍舒浄土文』(六)、『観無量寿経』(七)により念仏の人を讃えられます。
 そして本日の部分で、聖人は善導大師の『観念法門』を引かれます。(八)

 このように、聖人は御文の(三)から(八)までで、私たちは信心をいただいたその時に往生浄土が定まり、そこから退くことはないという「即得往生 住不退転」について説いておられることが分かります。

(写真の花は、オオキンケイギク・大金鶏菊と言います。今年5月25日に吉部の大棚で撮影しました。)

 ちょっと花期を過ぎましたが、鮮やかな黄色が目立つ植物で、あちらこちらで見かけるようになりました。見た目には明るくていいのですが、オオキンケイギクは旺盛な繁殖力で急速に繁茂しており、外来生物法という法律で特定外来生物として栽培・譲渡・販売・輸出入などが原則禁止されているということです。
 アメリカ原産で、日本ではドライフラワーに使う目的で栽培されていたそうですが、野生化してしまいました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR