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76.聞き書き「上宇内地区報恩講」(2)


20141219平山氏著書
      20141219宇内半鐘
 

 前々回に続いて、上宇内地区の報恩講に関して入手した情報をご紹介します。
 平山智昭さんといわれる郷土史研究家がおられます。その平山さんが著わされた『ふるさとの神さま仏さま-郷土のなかに先祖が見えてくる』という著書があります。平山さんは、この書の中で地元の神仏の像を取り上げられて、その由来や地域の方々との関わりを記されています。
 上宇内地区の阿弥陀堂について調べられたことも記されていましので、今回はその内容をご紹介します。

 平山さんによりますと、寛弘3年(1006年)に花山法皇の近臣の津田孫四郎という人が開基となって真言宗のお寺が建立され、これが後の阿弥陀堂の基となったということです。
 時代が下って、嘉永元年(1624年)に浄土真宗に改宗し「教順寺」と称したのですが、3代で廃寺となり、それ以降は地域の方々が阿弥陀如来のお像を守ってこられた、ということです。

 また、別のご著書では「阿弥陀堂は元禄元年(1688)の建立らしく」と述べられていて、これが昭和32年まで阿弥陀如来像を安置していた阿弥陀堂ということになるようです。
 
 また、集会所の軒先にある半鐘には「安政五午二月鋳造」と記されていて、この半鐘もかつての阿弥陀堂に置かれていたものと考えられます。

 以前の阿弥陀堂があった場所に近いところに柴川さんというご婦人がおられて、最初に志賀勇一さんのお宅でお話を伺ったときにもご一緒におられてお話を聞かせていただいた方です。90歳を超えておられるということでしたが、矍鑠とされた方でした。
 この柴川家が、廃寺になった後地域に引き継がれた阿弥陀堂を守ってこられたのだそうです。
 以前にもご紹介しましたように、この地区の浄土真宗のご門徒さんは3カ寺に分かれておられます。
 「どうしてそうなったのかご存知ではありませんか」とお尋ねしたところ、柴川さんは「それは浄土真宗の門徒の力が集まって強くなり過ぎないようにしたのではないか」と、それだと江戸時代のことなんでしょうが、つい少し前のことのように仰っておられました。

 すでに書きましたがこの地域にはかつては40戸余りの方々がおられたのですが、現在は16戸にまで減っています。今より1戸多い17戸時代の家屋の配置図というのを見せていただきました。
 この17戸の内、「志賀」という姓を名乗っておられるお宅が11戸あります。次いで多いのが先程の「柴川」の3戸ということになっていました。このような地域では名字以外の呼び名を使うということをやっていましたが、この上宇内地区でもそうで、かどな(「門名」でしょう)という名前がつかわれていたそうです。
 この柴川さんのお宅の門名は「台(だあ)」というのだそうです。あるいは、阿弥陀堂と関わりのある門名なのかもしれません。
 

 多くの方々からお話を伺い、このような歴史を持った阿弥陀如来のお像を地域の方々が一体になって大切に守って来ていただいたことがよくわかりました。

(写真は、平山さんのご著書の表紙と集会所の軒の半鐘です)
 少し見えにくいですが、「安政五」以下の銘が見えます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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