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742.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(31):無碍の一道(4)

20210510シロバナヤマブキs 20210510シロヤマブキs

 これまでの3回、親鸞聖人が「如来が弘誓をおこされた様子は、この『唯信鈔』に詳しく示されている」とされた、『唯信鈔』の部分を学びました。今回からはもう一度、親鸞聖人が記された『唯信鈔文意』に戻ります。

 今回は、聖人が取り上げられた偈頌の第2句目です。

  彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
  不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
  不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
 御文と現代語訳です。

 聞名念我総迎来(名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へ来(かえ)らしめん)

 「聞名念我」といふは、「聞(もん)」はきくといふ、信心をあらはす御(み)のりなり。「名(みょう)」は御(み)なと申すなり、如来のちかひの名号なり。「念我(ねんが)」と申すは、ちかひの御なを憶念(おくねん)せよとなり、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはせり。憶念は、信心をえたるひとは疑なきゆゑに本願をつねにおもひいづるこころのたえぬをいふなり。 
 「総迎来(そうこうらい)」といふは、「総」はふさねてといふ、すべてみなといふこころなり。「迎」はむかふるといふ、まつといふ、他力をあらはすこころなり。「来」はかへるといふ、きたらしむといふ、法性(ほっしょう)のみやこへむかへ率(い)てきたらしめ、かへらしむといふ。法性のみやこより衆生利益(りやく)のためにこの娑婆界(しゃばかい)にきたるゆゑに、「来」をきたるといふなり。法性のさとりをひらくゆゑに、「来」をかへるといふなり。

 (「聞名念我」というのは、「聞」は「きく」ということであり、信心を表す言葉である。「名」はお名前ということであり、如来が本願に誓われた名号である。「念我」というのは、その本願に誓われた名号を憶念せよというのである。これは大悲のお心によって誓われた諸仏称名の願に示されている。「憶念」とは、信心を得た人は疑いがないから、折にふれていつも本願を心に思いおこすことをいうのである。
 「総迎来」というのは、「総」はまとめてということであり、すべてのものをみなという意味である。「迎」は「むかえる」ということであり、待つといことであって、それは他力の救いを意味しているのである。「来」は「かえる」ということであり、「こさせる」ということである。法性の都へ迎え、連れて行き、来させ、かえらせるというのである。法性の都からすべてのものを救うためにこの娑婆世界に来るから、「来」を「くる」というのである。法性のさとりを開くから、「来」を「かえる」というのである。)

 親鸞聖人は、「聞名」という言葉を「阿弥陀さまのお名前をお聞きする」ことだとされます。「阿弥陀さまのお名前」とは、私たちを誰一人取り残すことなく必ず救うとされた願であり、間違いなく救うから私に任せなさいという呼びかけであり、そのお名前をお聞きするとは、その呼びかけを信じて疑わないことなのだと示されます。
 『無量寿経』の下巻に「聞其名号信心歓喜」という言葉がありますが、聖人はこれを「その名号を聞きて信心歓喜せんこと、(無量寿仏の名を聞いて信じ慶び)」と説かれ、「名号を聞く」とは阿弥陀さまのご本願をお聞きし、疑うことなく信じ、喜ぶことなのだと示しておられます。
 またこの姿は「聞即信」という言葉で表されます。名号をお聞きすることが、信じて疑わないことなのだと示されています。

 続いて聖人は「念我」の義を説かれ、「ちかひの御なを憶念せよとなり(その本願に誓われた名号を憶念せよというのである)」と示されます。そして「憶念」とは、「信心を得た人は疑いがないから、折にふれていつも本願を心に思いおこすこと」だとされ、聖人は、信心をいただいた私たちの信心が相続される姿をお示しいただいています。
 「念我」について、梅原真隆師は「我」は「ちかいの御な」であって、「念我」は仏体を憶想観念することではないと聖人が示されたとも注意を促しておられます。

 続けて聖人は、「総迎来」の義を説かれます。
 「総」は「すべて残すところなく」という意味で、第十八願の目当てはすべての人びとなのだとされます。それは、次回以降第三句以下でその内容が詳しく示されます。
 「迎」は「迎える、待つ」という意味で、阿彌陀さまがお浄土で待ち迎えていただくという、他力をあらわす言葉だとされます。お浄土で待っていただいているという意味で、いわゆる「来迎」とは違うというところは、以前の学びました「観音勢至自来迎」の句と同じお心です。

 「来」について、聖人は「かえる、こさせる」と信心をいただいた人が阿弥陀さまのお浄土に迎えられ、浄土に往生して涅槃を得ること(往相)を示され、あわせて、衆生を救うためにこの娑婆世界に「くる」こと(還相)の二つの姿を示されます。
 これも以前に学びました「観音勢至自来迎」の句に重なるところです。梅原真隆師は、聖人は「来」を「こさせる」と「かえる」の義だとされ、前者はお浄土に来させること(往相)、後者は法性の都に帰る(涅槃を得る)こと(往相)とさらに再び迷いの世界に戻り衆生を救うこと(還相)を示しているとしておられますが、いずれにしても私たちがお浄土に迎えられ、涅槃を得て、再びこの娑婆世界に還り衆生を救う役割を担う、ことが示されるものです。

(写真は、前回に続いてヤマブキの仲間です。)

 左はシロバナヤマブキ(京都市で撮影)、右はシロヤマブキ(「新宿御苑」で撮影)と言います。
 名前も姿もよく似ていますが、シロバナヤマブキの方は前回登場した山吹色のヤマブキと同じヤマブキ属に分類されますが、シロヤマブキの方は、同じバラ科のシロヤマブキ属という別の属に分類されています。花びらの数がヤマブキ属は5枚、シロヤマブキ属は4枚という違いで見分けることができます。シロヤマブキの方は自生している個体数が減って絶滅が危惧されています。
 
(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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