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724.掲示を変えました

20210308掲示s 20210308こども新聞s

  5月3日にお勤めする降誕会のご案内と「一言」の掲示を変えました。

 今回の言葉は、「嫌いなあの子も 仏の子」です。この言葉は、本願寺から発行されている「仏教こども新聞」の3月号に掲載されている言葉をお借りしたものです。図にありますように、新聞の表表紙にこの言葉が記されていて、記事のページに「今月のことば」としてこの「嫌いなあの子も 仏の子」について次のように書かれていました。全文をご紹介します。

 今日、席がえでA君のとなりになった。言ったらいけないと分かっているけれど、私はA君が嫌い。A君の服はいつも汚れていて不潔な感じがする。いやな気分で帰り、そのことを家で話すとママが教えてくれた。
 「A君のところは、お母さんが昨年病気で亡くなったのよ。お父さんはお仕事で毎日遅いから、A君が一人で料理や洗濯、弟たちの面倒を見ているんですって」
 私はビックリした。そしてA君を嫌っていたことがなんだか申し訳ない気持ちになった。
 以前、お寺の住職さんが言っていた言葉を思い出す。
 「私たちはみんな仏の子。親であるアミダさまは、一人一人の痛みを自分の痛みとし、『必ず助ける』とよんでいらっしゃる」
 A君も私も仏の子なのだ。私はA君の悲しみを知りもしないで嫌っていた。私の心の汚れが、アミダさまの光に照らされたようで、なんだか恥ずかしい。


 この文章を読んで、他の人を好きだ、嫌いだと言っているときの構造について考えさせられました。2つのポイントがあるように思います。

 その一つは、好悪の感情の中心には間違いなく「私」があるということです。その私は、「自分を中心にして」好きだ嫌いだと考えます。「私」が好きだ嫌いだ、「私」のためになるかならないか・・・という判断です。一般的な判断、客観的な評価とは別の「私」を原点にした座標軸に基づいた判断です。

 もう一つは、好きだ嫌いだと言っている私は、絶えず変化する存在です。そして、好悪の対象となっている相手もまた常に変化し続けます。変化し続ける私が、これまた変化し続ける相手を評価し、好悪の感情を形成するのですから、その関係性は刻一刻変わらざるを得ません。しかし、それでも私は私が一度持った好悪の感情にとらわれ固執します。その感情から解放されることが難しい状態に陥ります。

 このように、私は私の判断にとらわれ、そこから抜け出すことができずに苦悩しています。

 上記の文では、お母さんの言葉でハッと気づかされ、「私たちはみんな仏の子」、「親であるアミダさまは、一人一人の痛みを自分の痛みとし」という住職の言葉から「A君も私も仏の子なのだ」と気づくことができました。

 阿弥陀さまが悲しまれ憐れんでおられるのは、自分中心にしか周りを見ることができずにいる「私」、主体も相手も変わり続けている関わりであるにも関わらず、固定した観念にとらわれ続けている「私」なのだと気づかされます。そして、「私の心の汚れが、アミダさまの光に照らされたようで、なんだか恥ずかしい」と、すなおに自分を振り返ることができるようにならなければならないと改めて思います。

(図は、新しい掲示と「こども新聞」の表紙です)

 今回の掲示は字数が少なかったもので、イラストをいれました。あるいは、言葉を「好きな子も 嫌いなあの子も 仏の子」としてもよかったかも。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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