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720.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(22):名号の讃嘆(14)

 20210222奈良遠景s
 少し間があきましたが、前回に続いて『唯信鈔文意』に取り上げられた最初の偈頌の第4句です。最初の偈頌を再度示します。

  如来尊号甚分明 十方世界普流行
  但有称名皆得往 観音勢至自来迎

 親鸞聖人は、「迎」という文字について説かれます。御文と現代語訳です。
「迎」といふはむかへたまふといふ、まつといふこころなり。選択不思議の本願・無上智慧の尊号をききて、一念も疑ふこころなきを真実信心といふなり、金剛心ともなづく。この信楽(しんぎょう)をうるときかならず摂取(せっしゅ)して捨てたまはざれば、すなはち正定聚(しょうじょうじゅ)の位に定まるなり。このゆゑに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のごとくなるがゆゑに、金剛の信心とは申すなり、これを「迎」といふなり。
 『大経』(下)には、「願生彼国 即得往生 住不退転」とのたまへり。「願生彼国」は、かのくににうまれんとねがへとなり。「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転(ふたいてん)に住(じゅう)するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、これを「即得往生」とは申すなり。「即」はすなはちといふ、すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。 

 (「迎」というのは、「おむかえになる」ということであり、待つという意味である。如来が選び取られた不可思議の本願、この上ない智慧の尊号を聞いて、ほんの少しも疑う心がないのを真実の信心というのである。この心を金剛心とも名づける。この信心を得るとき、阿弥陀仏は必ずその人を摂(おさ)め取って決してお捨てになることがないので、すなわち正定聚の位に定まるのである。このようなわけで、信心は破られることなく、衰えることなく、乱れることがない。それが金剛のようであるから、金剛の信心というのである。このことを「迎」というのである。
 『無量寿経』には、「願生彼国 即得往生 住不退転(かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん)」と説かれている。「願生彼国」とは、阿弥陀仏の浄土に生まれようと願えということである。「即得往生」は、信心を得ればすなわち往生するということである。すなわち往生するというのは、不退転に住することをいう。不退転に住するというのは、すなわち正定聚の位に定まると仰せになっているみ教えである。このことを「即得往生」というのである。「即」は「すなわち」というのである。「すなわち」というのは、時を経ることもなく日を置くこともないことをいうのである。)

 聖人は、「迎」の字義について説かれます。

 「迎」は「むかへたまふといふ(おむかえになるという)」ことであり、「まつといふこころなり(待つという意味である)」といわれます。この部分では、「迎」が臨終来迎(臨終のときに迎えに来ていただく)の意味に混同されやすいおそれがあるところから、「待つ」という意味であることを明らかに記されました。
 その後の部分に説かれているように、信心の人は、金剛(ダイヤモンド)の如き信心をいただき、ただちにお浄土に救いとられることが定まり、「阿弥陀如来は浄土において決定(けつじょう)せる期待をかけて、金剛心の行者をまちたまい、浄土でむかえたもう」(普賢晃壽師)のであって、命終わるとき迎えに来られるのではない、と示しておられます。
 
 後半の部分で、聖人は『無量寿経』の下巻に記された「願生彼国 即得往生 住不退転」というお経文を引用されて、真実の信心をいただいたとき、現生において往生を得、その位から退くことはない、と示され、それが現生で受ける利益(りやく)であることを示されます。

 今回の部分で、親鸞聖人は、私たちは真実の信心をいただき、そのとき直ちにお浄土に救いとられることが決定(けつじょう)し、阿弥陀さまはそのような私たちをお浄土でお待ちいただいているのだとお示しいただきました。決して、前回の図にありましたように命終わるときに阿弥陀さまが「雲に乗ってお迎えに来られる」のではないのだお伝えいただいたのです。

(写真は、2006年1月8日、若草山から見た奈良市の夜景です。)

 この日は、若草山の山焼きの日で、初めて見に行きました。寒い日でしたから、熱燗を魔法瓶に入れて持って行きました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 
 
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