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709.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(19):名号の讃嘆(11)

20210115雪の竹林 

  前回に続いて、親鸞聖人が『唯信鈔文意』で取り上げられた最初の偈頌の第4句について学びます。もう一度4つの句を記しておきます。

  如来尊号甚分明 十方世界普流行
  但有称名皆得往 観音勢至自来迎 

 本日の部分の御文と現代語訳です。

 「自来迎」といふは、「自」はみづからといふなり、弥陀無数(むしゅ)の化仏(けぶつ)・無数の化観音・化大勢至等の無量無数の聖衆(しょうじゅ)、みづからつねにときをきらはず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそひたまひてまもりたまふゆゑに、みづからと申すなり。

 (「自来迎というのは、「自」は「みずから」ということである。阿弥陀仏の化身である化仏や観音・勢至の化菩薩など、数限りない聖者がたが、自ら常にどのような時も嫌ったりすることなく、どのような所も避けたりせず、真実の信心を得た人に付き添われお護りになるから、「みずから」というのである。)

 前回の部分で、聖人は観音、勢至の両菩薩は、阿弥陀さまが私たちのもとにおいでいただいたお姿だとお伝えになりました。
 今回から聖人は、「自来迎」という言葉についてその意を説かれます。

 まず、「自」という言葉について二つの字訓(解釈)を示されるのですが、その一つが今回の部分で、「自」は「みずから」ということだとされます。
 真実の信心を得た者には、阿弥陀さまが種々の姿となって現れていただき、付き添い護っていただく、しかも、それは時や所を選ばずにそうしていただくのであって、それが「みずから」の意味だと聖人はそのおはたらきを讃嘆されます。

 梅原眞隆師、普賢晃壽師は、『感無量寿経』にある次の言葉を示していただきました。
 「無量寿仏の化身無数にして、観世音・大勢至とともに、つねにこの行人(ぎょうにん)の所に来至(らいし)す。」
 (無量寿仏は数限りない化身を現して、観世音・大勢至の二菩薩とともに、このような観を修めるもののもとにおいでになり、常にその身を守られるのである)
 『観無量寿経』のこの部分は、お釈迦さまが韋提希夫人(いだいけぶにん)に説かれる十三の「定善観」(心を集中して仏と浄土の姿を観想する)の内の「第十二普観」と呼ばれているものです。

 両師はさらに、善導大師が『往生礼讃』の中でこの文を次のように釈しておられることを紹介されています。
 「また『観経』にのたまふがごとし。「もし阿弥陀仏を称(しょう)・礼(らい)・念(ねん)して、かの国に往生せんと願ずれば、かの仏すなはち無数の化仏、無数の化観音・勢至菩薩を遣(つか)はして、行者を護念せしめたまふ」と。」
 (また『観経』に仰っておられるように、「阿弥陀さまの名号を称し、礼し、念じて阿弥陀さまの国に生まれたいと願えば、阿弥陀さまは数限りない化身、観音・勢至菩薩を遣わして、信心の人をお護りになる」)
 さらに続けて、善導大師は次のように記されています。
 「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、一切の時処(じしょ)を問はず、もしは昼、もしは夜、つねに行者を離れたまはず。」
 (昼であろうと夜であろうと、時や処をいとわずに、信心の人を離れられることはないのだ)

 親鸞聖人が「自」を「みずから」と釈されたのは、信心の人を護りたいと阿弥陀さまの方から働きかけていただいている、というみ教えの流れを踏まえられたものだということを学ぶことができました。

(写真は、1月9日の竹林です。)

 寒波による雪で、以前の写真とは様子が変わりました。いつもですと雪の重みで竹がかぶさってくるのですが、あらかじめ伐っていただいていたこともあって、通行を妨げるまでにはならずに済んでいます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 

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