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668.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(7):題号釈

ゴボウ1     ドリーネ耕地 

  今回から、『唯信鈔文意』に入り、親鸞聖人のみ教えを学びたいと思います。
 今日は、最初の「題号釈」と呼ばれている部分です。御文は次の通りです。

 「「唯信抄」といふは、「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり。また「唯」はひとりといふこころなり。「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり、虚仮(こけ)はなれたるこころなり。虚はむなしといふ、仮はかりなるといふことなり、虚は実ならぬをいふ、仮は真ならぬをいふなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。「鈔」はすぐれたることをぬきいだしあつむることばなり。このゆゑに「唯信鈔」といふなり。」

 現代語訳です。
 「「唯信鈔」というのは、「唯」はただこのこと一つということであり、二つが並ぶことを嫌う言葉である。また、「唯」はひとりという意味である。「信」は疑いのない心である。すなわちこれは真実の信心であり、虚仮を離れている心である。「虚」は「むなしい」ということであり、「仮」は「かりの」ということである。「虚」は実でないことをいい、「仮」は真でないことをいうのである。本願他力におまかせして自力を離れていること、これを「唯信」という。「鈔」はすぐれていることを抜き出して集めるという言葉である。このようなわけで、「唯信鈔」というのである。」

 親鸞聖人は、本日の部分で、『唯信鈔』という聖覚法印の著された書の題号の「唯」「信」「鈔」のそれぞれについてその意味を説いておられます。

 聖人は「唯」という字に、二つの意味をみておられます。
 その一つは、「唯」は「このこと一つ」、「二つが並ぶことを嫌う」意味だとされます。あれもこれもと他の修行や善行、他の仏や菩薩に心をかけるのではなく、二心なく阿弥陀さまのお救いだけを信じることだとされます。
 また二つには、「唯」は「ひとり」という意味だと示され、他に伴うもののないこと、阿弥陀さまのお救いにはなんら他の助けも必要がないことが示されます。

 ついで、聖人は「信」とは、「疑いのない心」であると示されます。疑わずに信じ、疑いの自力心は全く混じっていない信だとされます。
 それは、「真実の信心」であり、「虚仮を離れている心である」とされます。「真実信心」は、阿弥陀さまから私たちにいただいた信心のことで、それは「虚」でなく「仮」でない真実の信心です。
 そして、聖人はこのように「本願力におまかせして自力を離れていることを」「唯信」とされました。

 さらに、「鈔」は「すぐれていることを抜き出して集める」という意味だとされ、『唯信鈔』の題号の意味について私たちにお示しいただきました。

 しかし、梅原眞隆師は『唯信鈔文意講義』の中で、聖人が著された『一念多念文意』では、その題号についてこのような解釈をされていないことに注目されています。師は、親鸞聖人のこの「唯信鈔」に対する題号釈は、単なる書名の解釈ではなく「この題号に標示された唯信の旨趣を開顕せられたもので、実は一巻の根本要義を提示されたものである。」とされ、今回私たちが学んでいる部分には、本書の要諦が述べられているとされています。

(写真は、ゴボウの花です。なかなか魅力的な花を咲かせます。)

 右のような秋吉台のドリーネ耕作地で、7月にこのゴボウの花に出遭いました。通常はここまで大きくなる前に取り入れるのだそうですが、この1本だけ、多分年を超えて、木のように私の身長に近い高さまで育っていました。

 今後、記事に関連のある写真や図を載せたいのですが、うまく行かないことが多いことと思います。気に入った写真や季節にあった写真も載せることにしましょう。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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