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662.『唯信鈔』、『唯信鈔文意』を読む(3)

 
20200803法印示寂s  

 前回は、『唯信鈔』の撰述者である聖覚法印について学びました。今回は、この『唯信鈔』が著された時代について調べてみました。

 聖覚法印が『唯信鈔』を著されたのは、承久3年(1221年)、55歳の時です。

 承久3年という年は、いわゆる承久の変が起こった年に当たります。この承久の変は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権北条義時に対して兵をあげた事件をいいます。事件は、幕府方と朝廷方の大規模な戦いとなりましたが、朝廷側が敗れ、後鳥羽上皇は隠岐に配流となりました。その後、朝廷に対する幕府の圧倒的な優位が確立され、承久の変は時代を画する事件となりました。

 すでに「御絵伝」の中で学びましたように、後鳥羽上皇は承元元年(1207年)念仏を禁止し、法然聖人を中心とした吉水の念仏集団を弾圧し、僧侶を処罰し、法然聖人や親鸞聖人を流刑としました。
 それから14年後に、今度は上皇が配流の身となったことになります。『唯信鈔』はこの承久3年の8月に完成されたとされていますので、この承久の変の事後処理が行われているときに当たります。

 聖覚法印はこの歴史の流れをどのように受け止めておられたのでしょうか?
 法印は『唯信鈔』を著して、他力の信心によるお念仏こそ往生浄土の因であることを示し、専修念仏に対する誤解を解こうとされました。しかし、在来の仏教界からの反発、攻撃はあい変わらず厳しいものがありました。『唯信鈔』が記されてから6年後になりますが、比叡山の僧兵が法然聖人の廟所を破壊するという事件、「嘉禄の法難」が起きます。
 このような厳しい時代背景の中で、この『唯信鈔』が著されたのですが、聖覚法印は『唯信鈔』の末尾に次の言葉を記しておられます。

 「信謗(しんぼう)ともに因として、みなまさに浄土に生まるべし。」
 (他力念仏の教えを信ずるものも、非難するものも、これを因縁として、みな人はすべて浄土に救われていくでしょう)
 「信じるものもそしるものも、共に如来大悲の掌の中にあるというのが、法然聖人・聖覚法印・親鸞聖人の御領解であったといえよう。」

 (以上は、普賢晃壽師の『聖典セミナー 唯信鈔文意』から引用させてただきました)

 かつて念仏集団を弾圧した後鳥羽上皇が、いまは隠岐に流されるという姿を前にして、信じる者も謗るものもみな阿弥陀さまの救いの光の中にある、という聖覚法印の思いを感じることができます。

 親鸞聖人は、上記の承久の法難により越後に流されました。その後1211年に流罪は赦免されたのですが、1212年の法然聖人のご示寂もあって京都に戻られずに関東に向かわれましたので、1221年に『唯信鈔』が著された時には、関東におられたことになります。

 真宗高田派の本山専修寺には、親鸞聖人ご自身が書写された『唯信鈔』が伝えられています。その奥書によりますと、聖人はこの書の草本真筆を書写されたと記されているということですので、関東におられた親鸞聖人のお手元には聖覚法印ご自身が記された『唯信鈔』があったということが分かります。このことは、関東におられた親鸞聖人は都におられる聖覚法印と強いつながりを持っておられたということを示すものだと言えます。

 その後、親鸞聖人は1224年に『教行信証』の草稿を完成し、1232年頃には京都に戻られました。
 聖覚法印は、1235年に69歳で亡くなりましたが、その年に親鸞聖人が書写された『唯信鈔』(専修寺平仮名本と呼ばれています)が伝えられています。その写本の奥書には、「文暦二年乙未三月五日御入滅也」とその年の3月5日に聖覚法印が亡くなられたことが記してあり、前回学びました「聖覚法印表白文」もこの写本に付されています。この写本は、親鸞聖人が聖覚法印をしのんで書写され、法印に関わる文章も付されたもので、聖人の法印に対する強い崇敬の念を感じることができます。

(図は、「法然聖人行状絵図」の中の聖覚法印のご示寂を描いたものです)

 詞書には「遂に文暦二年三月五日、生年六十九にて、端座合掌し念仏数百篇を唱へ往生の素懐を遂げられける、」とあります。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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