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653.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (65):奥書(3)

廟堂の推移s

  『御伝鈔』に付された3番目の奥書です。御文は次の通りです。

 「康永二載癸未十一月二日筆を染めをはりぬ。 
                   桑門 釈宗昭 
                   画工 大法師宗舜 康楽寺弟子」

 平松令三氏による訳です。
 「康永二年(1343)十一月二日筆をとって書き終わりました。
                   僧 釈宗昭
                   画工 康楽寺弟子大法師宗舜」 

 ここで、覚如上人はこの奥書を前回の第二の奥書の4年後に記されたことが分かります。
 こうして見ますと、覚如上人は1295年、26歳の時に初めて絵巻を制作され、その44年後の1339年に焼失した原本の写しをもとにして制作し直されました。そしてそのさらに4年後にもう一つの絵巻を制作されたことになります。この時、上人は74歳になっておられました。

 この最後の伝絵は制作年から「康永本」と呼ばれ、東本願寺に伝わっているものです。上人はその後伝絵を制作されなかったとされますので、伝絵の最終決定版であり、浄土真宗の寺院に伝えられる四幅の御絵伝はこの「康永本」を基本にして描かれたものです。
 この康永本について平松氏はその絵巻の紙幅について述べておられます。それによりますと、原本である専修寺本や西本願寺本が幅32~33センチであるのに対して、康永本の幅は41.8センチと10センチ近くも大きいのだそうです。これは、覚如上人が本願寺という寺院の地位を明確にしようという意思が現れているのだとされます。
 覚如上人は、大谷廟堂を寺院化して真宗門徒の中心とすることに注力された方でした。上人の晩年、そのご意志が実現していったという喜びと誇りもこの最後の伝絵に現れているとされます。

(図は、伝絵に描かれた廟堂の姿です。右から順に「西本願寺本」「専修寺本」「康永本(東本願寺本)」「弘願本(西念寺本)」です。)

 『真宗重宝聚英』にこの4枚を比較した記事がありましたので、図をお借りしました。
 廟堂の内部を見てみますと、西本願寺本では石塔だけが、専修寺本では親鸞聖人のご影像と石塔、康永本では正面を向かれたご影像、弘願本ではご影像が斜め向きに、見えます。

 これもみ教えとは別の話になるのですが、この絵相の違いから西本願寺本と専修寺本の制作時期の前後が論じられているのだそうです。その場合、廟堂内部の様子は画工が自分の判断で描けるものではなく、制作者の指示によるものであり、またそれは伝絵制作当時の廟堂の姿を伝えるものだ、ということが前提になっているようです。
 
 西本願寺本が専修寺本よりも古いとする立場からは、創建当時の廟堂には石塔だけが置かれていて、その後ご影像が安置されたのが専修寺本の姿だとされます。
 一方、専修寺本の方が先に描かれたとする立場からは、廟堂には最初から石塔とご影像が安置されていたのですが、ある出来事によりそのご影像が失われたというのです。それは、覚如上人と上人の叔父にあたる唯善氏との間に廟堂の管理権について争いが生じ、遠慶2年(1309年)に唯善氏がご影像を奪って関東に逃げるという事件が起こり、西本願寺本はその事件の後に描かれたので、ご影像がない絵になっているという説です。

 その時に、廟堂も破壊されたのですが、その後1311年に復旧され、それもまた前回記しましたように1336年に焼失しました。さらにその2年後1338年に古い仏堂が移設されたのだそうです。その時には石塔も失われていて、弘願本や康永本に描かれているように、その後に安置された親鸞聖人のご影像だけが描かれているということになります。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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