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650.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (64):奥書(2)

 
20200622西念寺s   20200622金刀比羅宮s
 『御伝鈔』に付されている「奥書」の2回目になります。今回は第二の奥書の内容を学びます。

 御文は次の通りです。
 「暦応(れきおう)二歳己卯四月二十四日、ある本をもつてにはかにこれを書写したてまつる。先年愚筆(ぐひつ)ののち、一本所持のところ、世上に闘乱のあひだ炎上の刻(きざみ)、焼失し行方知れず。しかるにいま慮(おもんぱか)らず荒本(こうほん)を得て記し、これを留むるものなり。」

 平松令三氏の訳文を載せます。
 「歴応二年(1339)四月二十四日、ある本によって、これを書写しました。実は先年(永仁三年)草稿を作って書き、一本を所持しておりましたところ、世間に戦乱が広がり、本願寺も兵火で炎上した際に、焼けてしまったようで行方知れずになりました。しかしこのたび、粗雑なひどい本ですが、思いがけず一本を手に入れましたので、それを基にして制作し、後世に残すことといたします。」 

 この奥書は、歴応2年(1339年)上人が70歳の時に記されたものです。
 それによりますと、覚如上人は、永仁3年(1295年)に最初の伝絵を制作された際、一本を手元に持っておられたようですが、その一本が戦火の中で焼けてしまったと言っておられます。平松氏によれば、この戦火というのは、建武3年(1336年)足利尊氏が湊川の合戦で楠正成の軍を破り、京都に侵入してきた時の戦火で、この時本願寺が炎上したことを指すということです。その時、覚如上人は近江の国に避難しておられたと伝えられています。
 上人が持っておられた一本は焼失したのですが、原本を写して作られた絵巻を入手することができて、それを元にして後世に残すことにした、と記されています。

 本願寺出版社から刊行された、現代語版『御伝鈔 御俗姓』では、巻末の付録で「伝絵」の本願寺本、東本願寺本、専修寺本の詞書の同異が対比してあり、奥書についてもその異動が分かります。
 それによりますと、西本願寺本と専修寺本にはこの第二の奥書がないようです。この両本は最初に制作されたもので、東本願寺本は、この第二の奥書のさらに後に覚如上人が制作された最後の版でしたからそのようになったのだと思われます。

 それともう一つ、この本で、前回漢字でパソコンの字典で見つけることができなかった字(ごんべん+「比」)は、西本願寺本と専修寺本では「紕」という字になっていることが分かりました。これなら、パソコンにもありました。手元の漢和辞典でも「ごんべん」の方は見つけることができなかったのですが、この「紕」はありました。それによりますと、「紕(ひ)」は「あやまり、まちがい」の意味があるようで、「紕謬」という言葉もあることがわかりました。

(図は、これまで取り上げた以外の「伝絵」下巻第七段の図です。)

 左は茨城県笠間市の西念寺に伝わるもの、右は香川県琴平の金刀比羅宮に伝わるものです。

 以前ご紹介しましたように、笠間の西念寺は、親鸞聖人が庵を結ばれた稲田の地に建立されたお寺です。西念寺に伝わる伝絵は、「弘願本」と呼ばれています。絵図の出入りからみて、弘願本は、西本願寺本や専修寺本の最初期のものと東本願寺本との中間の形態を持っているとされているようです。このことからも、覚如上人は、伝絵を最初に制作された後も手直しをしておられたことが窺えます。

 金刀比羅宮にも伝絵が伝えられているということは、知りませんでした。
 以前にもご紹介したことがありますが、『真宗重宝聚英』という全集の第5巻は「親鸞聖人伝絵」となっていて、多くの「伝絵」を見ることができます。この本の解説は平松令三氏が書いておられるのですが、平松氏によれば、この金刀比羅宮に伝わるものは、江戸時代末期の大和絵の巨匠冷泉為恭(れいぜいためちか)の手になる模写だということです。平松氏は、彼が親鸞聖人の伝絵も模写していたということに注目しておられました。
 図は東本願寺本と同じで、薄紙を当てて模写したものだと言われているようです。面白いのは、伝絵の詞書の部分は、それぞれの段の書き始めと書き終わりの部分だけが記されているということです。つまり、もっぱら絵図を模写することが目的だったということが分かるというわけです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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