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649.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (63):奥書

20200619東本願寺本s

 久しぶりに、御絵伝に戻ってまいりました。前回までで、『御伝鈔』の下巻第七段を学んできました。
 今回は、その後に記されている「奥書(おくがき)」について学びたいと思います。

 御文です。
 「奥書にいはく 
  右縁起図画(えんぎずえ)の志、ひとへに知恩報徳のためにして戯論(けろん)狂言のためにあらず。あまつさへまた紫毫(しごう)を染めて翰林(かんりん)を拾ふ。その体(てい)もつとも拙(つたな)し、その詞(ことば)これいやし。冥(みょう)に付け顕に付け、痛みあり恥あり。しかりといへども、ただ後見賢者の取捨を憑(たの)みて、当時愚案の*謬(ひびゆう)を顧みることなきならんのみ。 
  時に永仁第三の暦、応鐘(おうしょう)中旬第二天、晡時(ほじ)に至りて草書の篇(へん)を終(お)へをはりぬ。
                   画工 法眼(ほうげん)浄賀 号康楽寺」

 (文中の(*)の部分は「ごんべん」に「比」という字なのですが、パソコンにありませんでした)

 現代語訳です。平松令三氏によります。
 「右のように、親鸞聖人ご生涯の伝記を絵巻に制作した趣旨は、ただただ聖人の御恩に報いようというためであって、芸能や遊びのためではありません。絵を描き、文章を綴りはしましたが、その体裁は拙劣で、文体も程度の低いものです。仏・菩薩に対しても、この世の心ある人びとに対しても、恐縮で、恥ずかしいものです。しかしこれを見ていただく賢明な方がたが、取捨選択していただくのにまかせて、自分勝手な誤りのあることを気にかけないであえて公開いたします。
  永仁三年(1295)十月十二日午後四時ごろ、ようやく草稿を完了しました。
                   画工は法眼康楽寺浄賀です。」


 この「奥書」といいますのは、「巻軸・写本などのおわりに、その来歴などをしるした書き入れ」のことで、今回の『御伝鈔』には、3つの奥書があるとされています。今回はその第一の奥書で、永仁3年、26歳の覚如上人が最初に『伝絵』を完成されたときのものです。
 上人はこの中で、この絵巻は親鸞聖人への報恩のために制作したものであって、決して遊び心によるものではない、と述べておられます。

 奥書の中で上人は、「絵は、康楽寺の浄賀という人の手になる」と記されているのですが、平松氏によりますとこの康楽寺がどこのお寺なのかということについては、まだ明確な結論が出ていないのだそうです。 

 そこで思い出したのですが、このシリーズの第1回目で、この康楽寺は長野市にある康楽寺のことで、浄賀師は同寺の第2世だという説をご紹介していました。なのですが、どうもこの説は怪しいもののようです。
 平松氏によりますと、同寺の寺伝でも同じことが伝えられていて一時期はそれが定説になっていたのだそうですが、その後の研究により、その伝承は後世の偽作ではないかという説が出されたのだそうです。かつて京都に康楽寺というお寺があって、ここで言われている康楽寺はそのお寺のことではないかということになっていて、平松氏もこちらの説の方が有力だとみておられるようです。
 2年前のことですが、ちょっと勇み足だったようで、お詫びします。

(図は、東本願寺本の伝絵です)    
 
 前回まで注目していました図の像で見ますと、廟堂の中には親鸞聖人のご影像と三具足が置かれてあり、覚如上人とされる僧侶が境内を掃除している姿が描かれていますが、回廊には人影が見えません。また、廟堂の屋根は檜皮葺で描かれています。
 この康永2年(1343年)に制作された東本願寺本が、覚如上人による伝絵の最終版とみなされ、その後広く伝えられる『御絵伝』のもとになっているとされています。

 (このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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