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642.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (62):下巻補(9)

20200525西本願寺本下巻第7段s

  今回は、『御伝鈔』には記されていませんが、聖人のご遺骨をお納めする廟堂の建立と本願寺の起源に関わることについて学びたいと思います。

 前回までで、親鸞聖人がご往生され、そのご遺骨を最初は大谷の地の墓所にお納めし、後に吉水の北辺りに仏堂を建ててここにご影像とともに安置されたことを学びました。以前にも記しましたように、この仏堂の建立には、聖人の末娘で聖人のご臨終にも立ち会われた覚信尼公が関わっておられます。覚信尼公は、関東の門弟方に墓所の移設、仏堂の建立を呼びかけられ、関東の門弟方はこれに応えられて支援を寄せられました。

 その仏堂を設けた吉水の地は、覚信尼公のご主人の小野宮禅念氏の持ち物でしたが、禅念氏は文永11年(1274年)にこの土地を覚信尼公に譲られます。その際に、禅念氏は、この土地は、子供に譲る譲らないも含め覚信尼公の意志によって取り扱うように、とされたのだそうです。覚信尼公の門徒方の中での立場を考えて、禅念氏はそのような配慮をされたのだと伝えられています。
 このようにして、大谷の仏堂は関東の門徒が建立したもの、その土地は覚信尼公の所有するもの、という形になりました。

 その後、建治3年(1277年)に、覚信尼公はこの土地を聖人の墓所に寄進されました。覚信尼公はその際、この寄進は「御はかをまたくせんため」(御墓を全くせんため:お墓を将来にわたって問題が生じないように)に行うのだと仰ったと伝えられています。自身の末裔が廟堂を恣意的に営むことがないようにする、という思いだったとされています。このことによって、大谷の廟堂は、その土地も含めて門徒が共同して所有するものとなったということができます。

 覚信尼公はその際、「この御めうだうあづかりて候はんずるあまがすゑずゑの物ども」(この御廟堂預かりて候はんずる尼が末々の者ども)とされ、自分の子孫がこの廟堂を預かり管理していく、とされました。この管理する役目は、「留守職(るすしき)」と呼ばれますが、大谷の廟堂の留守職は覚信尼公の子孫が勤める、ということを示されたことになります。
 しかし同時に、覚信尼公は、その留守職が門徒の意志に背いて祖廟に混乱を招くようなことがあった場合には、門徒は直ちにその者を留守職から追放する、ことも定められ、留守職の役は「預かる」のであって、その地位は門徒の意志に拠るということも示されています。

 このようにして、覚信尼公は廟堂を建立され留守職を設置されました。このことは、前者は後の本願寺の開基に当たり、後者はご門主にかかわる制度へとつながるもので、覚信尼公がその礎を築かれたことになります。

(図は、西本願寺本の伝絵です。)

 すでに掲載しました他の図(自坊の御絵伝、専修寺本の伝絵)と比較しますと、この西本願寺本には次のような特徴があることが分かります。
 ・廟堂の中には石柱だけが描かれています。専修寺本では石柱とご影像の両方、御絵伝ではご影像と三具足が描かれていました。
 ・回廊に僧侶の姿が描かれています。専修寺本では僧侶以外の人も描かれていました。一方、御絵伝では誰も描かれていませんでした。
 ・御絵伝と専修寺本には、覚如上人ご自身とされる僧侶の姿が描かれていましたが、西本願寺本では誰も描かれていません。
 ・屋根は檜皮葺ではなく瓦葺です。専修寺本でも瓦葺に、御絵伝では檜皮葺に描かれていました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 
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