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640.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (60):下巻第七段(2)

20200515自坊下巻第七段s

 今回も、御絵伝の下巻第七段の前半部分を学びます。今回の訳文は、新しく発刊されました「現代語版 御伝鈔 御俗姓」からいただきました。

 「文永九年の冬頃、東山の西の麓、鳥部野の北、大谷の地に納めた遺骨を改葬し、そこからさらに西、吉水の北辺りに納め直しその地に仏堂を建て、親鸞聖人の影像を安置した。」

 前回はこの部分の前半、大谷の地にご遺骨を納めた墓碑について学びました。今回はその後半部分で、そのご遺骨を改葬し、新たに仏堂を建てたとことが記されています。この仏堂の建立には、聖人の末娘である覚信尼公が関わっておられます。

 覚信尼公は、親鸞聖人に付き添って京都に残られ、聖人のご往生のときもおそばにおられました。平松令三氏によりますと、覚信尼公は、聖人が亡くなられた後に小野宮禅念(おののみやぜんねん)という方と結婚(再婚)されたということです。この禅念氏は、聖人のみ教えと覚信尼公の立場をよく理解された人だったようで、ご自身が買い求めていた土地に聖人のお墓を移すことに同意されたということです。
 大谷の地にあった聖人の最初の墓所は、東山の斜面にあり、ちょっと不便でしかも見すぼらしく、雨露をしのぐ備えもなかったようです。前回の専修寺本の伝絵の聖人の墓所がその姿を示しているようです。
 平松氏によりますと、禅念氏がその土地を買い求めた際の証文の控えが本願寺に残っているそうで、それによりますと、広さは144坪(475㎡)程度だったとされます。決して広い土地ではありませんが、この地が本願寺の発祥の地ということになります。

 この記事の最初に掲げました自坊の御絵伝の図に見えますように、六角形の建物の周りに回廊を巡らせた形式をとっています。
 堂内には聖人のご影像が安置され、ご影像の前には三具足と呼ばれる仏具が備えられているのが見えます。上記の「現代語版」の脚注では、このご影像は現在本願寺の御影堂に安置されている親鸞聖人のお像(木像)のことだとされています。このお像は聖人が71歳ときに自ら彫られたもので、聖人ご往生の後にご遺灰を漆に混ぜて全体に塗りこめたものだそうです。

 平松氏は、この六角堂の形にも注目しておられます。といいますのは、六角形の建物は建築が難しく、建築費用もかさむのだそうです。この最初に建てられた廟堂の形が六角形だったのは、かつて聖人が六角堂にこもられた後に法然聖人の許を尋ねられたことにも関わりがあり、また残された門弟方の聖人をお慕いする気持ちの強さも表している、とされます。

(図は、自坊の下巻第七段です。)

 図の右手に、竹箒を持って庭を掃いている僧がただ一人描かれています。この人は、御絵伝を編纂された覚如上人ご自身だろうとされているのだそうです。
 なぜ上人はこの最後の図にご自身を描かせられたのだろうか、ということについては、諸説があるようです。ご自身が廟堂を管理する権限を持っているということを示したかったとする説があったり、平松氏は、テレビのドラマなどの最終場面に原作者がちょっとだけ顔を出すことがあるような、そんなものだったのかもしれない、ともされています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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