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641.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (61):下巻第七段(3)

 
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 御絵伝の下巻第七段の後半部分、『御伝鈔』としても最後の部分に当たります。

 このときに当りて、聖人(親鸞)相伝の宗義いよいよ興(こう)じ、遺訓(ゆいくん)ますます盛(さか)りなること、すこぶる在世の昔に超えたり。すべて門葉(もんよう)国郡(こくぐん)に充満し、末流(ばつりゅう)処々(しょしょ)に遍布(へんぷ)して、幾千万といふことをしらず。その稟教(ほんぎょう)を重くしてかの報謝を抽(ぬき)んづる輩(ともがら)、緇素(しそ)老少、面々に歩みを運んで年々廟堂(びょうどう)に詣(けい)す。おほよそ聖人在生(ざいしょう)のあひだ、奇特(きどく)これおほしといへども羅縷(らる)に遑(いとま)あらず。しかしながらこれを略するところなり。

 このころになると、聖人から受け伝えた念仏の教義はいよいよ興隆し、言い遺されたおさとしはますます盛んで、聖人ご在世当時をしのぐほどでした。門下の人びとは諸国に満ちあふれるほどで、村むらにあまねくひろがり、その数はかぞえきれない有り様でした。他力念仏の教えを重んじて、報恩謝徳にはげむ人びとは、僧侶といわず俗人といわず、老人も若い者も、みなそれぞれにこの廟堂へ参詣にやって来るようになったのです。
 以上、親鸞聖人のご在世中には、いろいろと珍しく且つわれわれの心を打つ出来事がたくさんありましたが、詳しく記述する暇(いとま)がありませんので、残念ながら省略いたします。

 この部分で、覚如上人は、親鸞聖人のご往生の後にそのみ教えがいよいよ広まった様子をお伝えいただいています。

(本日の図は、専修寺本の伝絵です。)

 この図は、専修寺本でも最後の図になります。左の図はその全体、右の図はそのうち、廟堂の部分を拡大したものです。

 廟堂を囲んで回廊が描かれているところは前回載せました自坊の御絵伝と変わりがないのですが、今回の図では回廊に僧侶や武士と見える人の姿がたくさん描かれています。「僧侶といわず俗人といわず、老人も若い者も、」と『御伝鈔』に記された様子がうかがえます。後年制作された御絵伝では、なぜか回廊に人の姿が描かれていません。なぜそうなったのかという点については、平松氏もよく分からないとされています。

 お話しがみ教えと離れて絵の方に行ってしまいますが、もう少しこの図を見てみます。
 今回の図では、廟堂の中に聖人のご像とともに石柱が置かれているように描かれています。前回の自坊の御絵伝では、ここには聖人のご像と三具足が描かれていましたが、石柱はありませんでした。ご遺骨を大谷からこの地にお移しした当時は、大谷にあった石柱もこちらに移され、聖人のご像(木像)とともに安置されていたのではないか、とされているようです。 
 また、西本願寺本の伝絵では、廟堂の中には石柱だけが描かれており、専修寺本とどちらが古い本だろうかという点も含めて、議論の対象となっているようです。
 前々回の図(専修寺本)で、大谷の墓所の石柱は六角形だと書いていましたが、こちらの図を見ると四角形のように見えます。その目でもう一度大谷の墓所の図をみると、こちらも四角形のようにも見えます。平松氏の記述をそのままご紹介したのですが、どちらが正しいのでしょうか、よく分かりません。

 今回の専修寺本にも右手に僧侶が一人描かれています。御絵伝では、覚如上人ご自身とされるこの人物は境内の掃き掃除をしているように描かれていましたが、専修寺本では取っ手のついた鍵と思われるものを手に持っています。これは、覚如上人が、ご自身がこの廟堂の鍵を預かる管理者であるということを示されたのではないか、とされているようです。原作者がちょっと顔を出す以上の意味が込められているのかもしれません。

 もう一つ自坊の御絵伝との相違点として、専修寺本では廟堂の屋根は瓦葺になっていますが、自坊の図ではこれは檜皮葺のように描かれている点があります。これについて、平松氏は、最初の廟堂は建武3年(1336年)に戦火で焼失し、その後檜皮葺のものに建て替えられ、その後に制作された伝絵やそれをもとに制作された御絵伝の絵師はそのことを知らなかったのだろうとされます。

 図一枚だけでも、いろいろなことが想像され、解釈されるものですね。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)


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