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639.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (59):下巻第七段

20200515伝絵専修寺本

  再び「御絵伝」に戻ってまいりました。下巻の第七段、4幅の「御絵伝」では4幅目の一番上(最後)に当たります。

 この段の前半部分のご文と訳文を載せます。

 文永九年冬のころ、東山西の麓、鳥部野の北、大谷の墳墓をあらためて、おなじき麓よりなほ西、吉水の北の辺(ほとり)に遺骨を掘り渡して仏閣を立て、影像を安(あん)ず。」

 親鸞聖人入滅から十年後の文永九年(1272)冬のころ、京都東山の西麓、鳥部野の北方の大谷にあった聖人のお墓を改葬することにして、ご遺骨を掘り起こし、同じ東山西麓ながら、なお西にあたる吉水の北のあたりにお堂を建て、ご遺骨をそこに移し、堂には聖人の御影像を安置しました。

 今回の部分は、親鸞聖人のご廟所について記された部分で、本願寺の開基にも関わる部分となります。

 すでに学びましたように、聖人は弘長2年(1262年)の冬に亡くなられ、鳥部野の南にあった延仁寺で荼毘にふされ、ご遺骨は鳥部野の北、大谷の地に埋葬されました。
 平松令三氏によりますと、ご遺骨の一部は関東のお弟子さんに分け与えられ、その残りの部分が大谷の地に埋葬されたようです。
その埋葬の場所は、今の知恩院の御影堂の東方、山の斜面だったと考えられ、親鸞聖人の師であった法然聖人のお墓もこの近くにあったと思われる、と記されています。

 法然聖人は、建暦2年(1212年)にお亡くなりになりました。親鸞聖人が越後の配流先におられた頃でした。法然聖人のご遺骸(その時は土葬されたようです)はこの東山の地に埋葬されたのですが、嘉禄3年(1227年)に比叡山の僧たちがそのお墓を壊してご遺骸を掘り返そうとした事件がありました。法然聖人の門弟たちは、それに先んじてご遺骸を現在の長岡京市にある光明寺にお運びし、火葬しました。従って、親鸞聖人のご遺骨を埋葬した時には、法然聖人のお墓はそこにはなかったことになります。

 親鸞聖人の大谷のお墓は、上の図のように、木の柵で囲んだ四角い壇の中央に六角柱と見える石の柱を立てたものだったようです。石柱の上には、笠と宝珠を乗せた形になっているようですが、この形は比叡山の横川(よかわ)で始まった様式だということです。平松氏は、親鸞聖人が青年時代に横川で過ごされたことにちなんだものではないかとしておられます。

 『御伝鈔』では、吉水の北にお堂を建ててご遺骨を大谷の墓所からこちらにお移しし、一緒にご影像を安置したと記されています。

(図は、専修寺本の伝絵です。書き込みには「聖人の墓所」と記されています。)

 寺の御絵伝を始め一般の御絵伝には、この大谷の墓所の図はなくて、聖人のご遺骸を荼毘に付している図の次には、「吉水の北に」建てられたお堂の図が描かれています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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