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633.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (57):下巻第六段(3)

20200424下巻第六段後半自坊s
 
 今回は、『御伝鈔』の下巻第六段の後半部分です。ご文と訳文です。

 禅房は長安馮翊(ふよく)の辺(ほとり) 押小路(おしこうじ)の南、万里小路(までのこうじ)より東 なれば、はるかに河東(かとう)の路(みち)を歴(へ)て、洛陽東山の西の麓(ふもと)、鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺(えんにんじ)に葬(そう)したてまつる。遺骨を拾ひて、おなじき山の麓、鳥部野の北の辺、大谷にこれををさめをはりぬ。しかるに終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若、おのおの在世のいにしへをおもひ、滅後のいまを悲しみて、恋慕涕泣(れんぼていきゅう)せずといふことなし。

 その時のお住居(すまい)の場所は、京都の押小路の南、万里小路の東でしたから、遠く賀茂川の東の道を通って、東山の西麓で、鳥部野の南側、延仁寺で火葬にせられました。翌日、ご遺骨を拾い、同じ東山山麓で、鳥部野の北側の大谷の地にお納めしました。
 このように聖人の最後に出会った門弟たちや聖人のご教化を受けた老若の門徒たちは、それぞれ在りし日のことを想い出し、ご遷化の今を悲しんで、みな聖人を恋い慕い涙を流したことでした。


 今回の部分では、聖人を火葬し埋葬した時の様子が記されています。
 それによりますと、聖人は押小路通の南、万里小路の東の地に住んでおられた、とされます。前にも学びましたが、聖人は1255年、ご往生の7年前になりますが火災に遭われました。その後、こちらに移られその地でご往生されたことになります。また、他の書(『自然法爾章』)では、聖人は三条富小路(とみのこうじ)にある善法坊僧都のご坊に身を寄せておられたとされているそうです。
 前回にも書きましたが、この善法坊僧都と呼ばれている人は、親鸞聖人の弟の尋有僧都のことです。そのお住いの場所が、三条富小路にあったとされているのですが、それは『御伝鈔』の「押小路の南、万里小路の東」という場所とは違っているようにみえます。
 平松令三氏によりますと、押小路通は二条通りの南の通りで三条通りの北にあり、万里小路(現在の柳馬場)は富小路の一筋西にあることから、両者は同じ場所になるとしておられます。

 聖人のご遺体は、都を横切るように右京から東山へ運ばれ鳥部野の南にある延仁寺で火葬に付され、鳥部野の北の大谷の地に埋葬されました。
 鳥部野(鳥辺野)は現在の清水寺から本願寺の大谷本廟周辺に当たり、平安時代から京都の墓所の一つだったということです。大谷本廟の近くには親鸞聖人を荼毘に付した場所として「御荼毘所」があります。

 ご往生の地(右京の該当地)には、現在、本願寺の角坊別院(すみのぼうべついん)があります。同別院は、安政4年(1857年)に聖人の600年大遠忌に当たり坊舎を建てられたことに始まると伝えられています。
 境内には聖人の大きな立像があり、また山門には大きな金属製の傘がかけられています。この傘はかつて聖人の像が被っておられたもので、戦時に金属製の聖人の像が供出され傘だけが残されたのだとお聞きしたことがあります。
 この角坊別院に隣接して宗門校の中央仏教学院のキャンパスがあるのですが、バス停から学院に登校するのに別院の境内を通ると近道になる(という申し訳ない理由で)、よく通させていただいていました。また別院の法要に出勤するという経験もさせていただいたことなど、懐かしい思い出の場所でもあります。

(図は、自坊の「御絵伝」の下巻第六段の後半部分、御絵伝の4幅目の下から4番目の図に当たります。)

 画面右部では、聖人の棺をお乗せした輿が進んでいる様子が描かれています。画面左では、ご遺体を火葬している様子が描かれます。どちらの場面でも、多くの人々が聖人を慕い嘆き悲しんでいる姿が描かれています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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