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626.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (54):下巻補(8)

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  今回は、親鸞聖人が京都に帰られてからのことで、聖人が著された著書に関することです。
 以前記しましたように『御伝鈔』にはもっとも重要な著書である『教行信証』についての記述もなく、ほかの著書についても同様に触れられていませんが、今回は聖人が京都に帰られて以降に著された著書について概要を学びたいと思います。

 『教行信証』については、関東在住時代にその草稿本が成立し、聖人はその後校正を繰り返されたとされていますが、聖人は京都に帰られて以降に多くの書を著されました。
 『浄土真宗聖典(註釈版)』の巻末に置かれている年表によって、聖人の著書とその著作時期を整理しますと、次のようになります。
 法治2年(1248年)(聖人76歳)『浄土和讃』『浄土高僧和讃』
 建長2年(1250年)(聖人78歳)『唯信鈔文意』
 建長4年(1252年)(聖人80歳)『浄土文類聚鈔』『入出二門偈頌』
 建長7年(1255年)(聖人83歳)『尊号真像銘文』『浄土三経往生文類』『愚禿鈔』『皇太子聖徳奉讃・75首』
 康元元年(1256年)(聖人84歳)『往相回向還相回向文類』
 正嘉元年(1257年)(聖人85歳)『一念多念文意』『大日本国粟散王聖徳太子奉讃・114首』
 正嘉2年(1258年)(聖人86歳)『正像末法和讃』
 文応元年(1260年)(聖人88歳)『正像末和讃』を補訂

 前回に学びましたように、聖人が火災に遭われたのが1255年、ご子息の慈信房(善鸞)を義絶されたのが翌年の1256年ですので、この前後に多くの大切な書を著されていることが分かります。
 この時期と言いますと聖人はすでに80歳を超えておられ、その上二つのご苦難の前後です。私自身と比較するなどはおこがましいのですが、私はまだこのまとめにでる以前の年齢なのですが、このような精力的といいますかものすごいエネルギーをもってことに当たることなどできないのではないか、などと弱音を吐いてしまいそうです。

 この他に、年表を見てみますと、多くの書を書写されたことが分かります。
 書写されたものの中では、聖覚法印が著した『唯信鈔』を何度も書写されたことが分かります。この『唯信鈔』を読むように勧められたご消息(お手紙)が残されており、書写されたものを門弟に与えられたと思われます。
 また、聖人ご自身も『唯信鈔文意』を著されて『唯信鈔』の意義を明らかにされていることからも、聖人が『唯信鈔』を大切にしておられたことが窺えます。

 このように、親鸞聖人は80歳を超えてなお、ご自身のお考えを伝えたいと書を著され、一般の人々にも理解してもらいたいと和語による和讃を作られ、多くの書写本を門弟に与えられました。このような聖人のご尽力のおかげで、現在の私たちに浄土のみ教えが伝わっていただいているということを実感し、改めてお礼申し上げたいと思います。
 と言っておりますが、私自身は、上記のご著書の多くはまだ開いたこともないものでもあります。これから少しづつでも学びたいと思っております。
 
(写真は、3月25日に秋吉台で出会ったオキナグサの花です。)

 当日は、展望台から長者が森までの往復を歩いたのですが、途中3か所で、それぞれ1株づつでしたがこのオキナグサの花を見ることができました。(写真の株は、気づかずに踏まれないようにと、小さな石で囲ってありました)
 2月23日に山焼きが行われましたので、約1カ月で芽を出して花を咲かせるまでになったということになります。その生命力にも感心させられます。
 昨年出会ったのは1か所だけだったので今年は増えた形になっていますが、オキナグサは近年自生している個体数が減っており、環境省のレッドリストで絶滅が危惧される植物に指定されています。個体を減らしている原因のひとつが盗掘なのだそうです。掘り取って持ち帰ってもまずうまく育たないということですが、それでもなくならないのだそうで、残念なことです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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