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625.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (53):下巻補(7)

20200327新報記事s

  引き続き親鸞聖人のご生涯について学びます。今回も『御伝鈔』には記述がないものですが、「善鸞義絶」と呼ばれ、親鸞聖人がご子息の善鸞(慈信房)を義絶(親子の関係を絶つことです)された出来事です。

 法然聖人が開かれ親鸞聖人も帰依された浄土教のみ教えは、それまでの伝統的な聖道門、自力の仏教とは違うとするところにその基礎を持ち、古くから伝えられた習俗や慣習とも違うものとして広まっていきました。
 そのようなこともあって、教団の内部には教えに対する理解の違いが存在し、時にそれが表面化し激しく対立するような事態が生じます。また教団の外からは在来の習俗や「信仰」を軽んじているという非難を何度も受けることになります。

 教団内部の抗争としては「一念多念(いちねんたねん)」の論争が法然聖人の時代から争われ、その後も尾を引いていたとされています。また、教団の外から非難攻撃の的となったのは、「増悪無碍(ぞうあくむげ)」「神仏軽侮(しんぶつけいぶ)」と呼ばれる考えや行動がありました。
 この「増悪無碍」は「悪事を犯しても浄土往生のさまたげにならない」として、あえて反道徳的な行動をする立場であり、「神仏軽侮」は従来の習俗である神祇を否定し、伝統的な仏教を軽んじる行動をいいます。これらの行動が在来の仏教や時の権力者の反発を呼び起こし、教団に対する弾圧の原因となりました。

 赤松俊秀氏の『人物叢書 親鸞』によれば、この争いが改めて激しくなったのは建長3年(1251年)頃ではないか、とされています。聖人が関東を離れられてから十数年が経過した時期です。親鸞聖人は、これらの教団内の争いや教団外からの非難を受ける行動に対して、それは誤りであり改めるように諫めるご消息(お手紙)を何度も関東の門弟に書き送られています。
 聖人のこのようなご努力にもかかわらず、争いは激しくなり、また外部からの教団に対する非難、攻撃も激しくなっていたことがこの善鸞義絶事件の背景にあると思われます。 

 混乱する関東の教団に対して、親鸞聖人はそれを収めようとご子息の善鸞(慈信房)を派遣されました。
 彼についてはよく分からないところが多いようですが、赤松氏によれば、京都の親鸞聖人のおそばにいてその当時50歳になるかならないか、という年齢だったのではないか、とされています。

 彼は関東に赴き、事態の収拾に当たります。しかしその過程で、関東の各地に道場を構えていた門弟である道場主と対立することになったようです。その対立の中で、彼は、自分は父聖人から夜に密かに伝えられた教えをいただいているので自分の教えの方が正しいのだと主張し、自分の周りに信者を集めようとしたと伝えられています。
 このような彼の動きは門弟たちから京都におられる親鸞聖人にも伝えられました。彼の主張するところはその後過激になり、父聖人や母恵信尼公を非難し、ついにはみ教えを謗るまでになりました。当初、関東の状況を十分に把握されておられなかった聖人も、このような事態を前にして、非は明らかに慈信房の方にあると判断されることになりました。

 建長8年(1256年)5月29日付けのご消息(「慈信房義絶状」とも呼ばれています)が残されています。
 この中で聖人は、慈信房が行った非業を挙げ、次のように記されて本人と門弟方に親子の縁を切ることを伝えられました。
 「このことどもつたへきくこと、あさましさもうすかぎりなれば、いまは親といふことあるべからず、子とおもふことおもいきりたり。三宝・神明に申しきりをはりぬ。かなしきことなり。」
 慈信房の行いを憤り、親子の縁を切らざるを得なくなったことを深く悲しんでおられることが伝わってくるご文です。

 また、この「慈信房義絶状」の最後の部分に、聖人は次のように記されています。
 「親鸞がをしへにて、常陸の念仏申す人々を損ぜよと慈信房にをしへたると鎌倉まできこえんこと、あさましあさまし。」
 聖人は、「私が関東の念仏者を害するようにと慈信房に教示したかのように鎌倉幕府にまで伝わったとのこと、ひどいことで嘆かわしいことだ」とされています。このことから、今回の争いが(多分慈信房サイドから)幕府に持ち込まれことが窺え、聖人はそのように教団内の争いが時の権力者に持ち込まれて、それをきっかけに教団が介入を受けることの問題を指摘しておられるのだと思います。
 実は、この善鸞義絶事件の前にも教団内に対立が生じて、その一方が幕府に訴え出るという事件があったようです。この時も、幕府に訴えた異議(誤った教説)派の訴えは退けられたようですが、教団内の問題を時の権力者に訴えるということが行われるようになったということなのでしょうか。今回の事件で、時の権力者とのかかわり方も聖人のお悩みの一つだったのではないかと思われます。

 建長8年5月といえば、前年の12月に火災に遭われた半年後になります。慈信房を関東に派遣された時期はよく分からないのですが、義絶に至るまでの様々なご苦悩の中での火災遭遇だったということになります。

 (図は、2月20日付けの『本願寺新報』に掲載された「ここに注目!読み解き親鸞聖人ご絵伝」です)

 このシリーズはちょうど2年前の4月に連載が始まったもので、この第64回で完了となりました。このブログではその7月から御絵伝を学び始めて、追いついたりまた離されたりしながら各段を学んできました。

 以前にもご紹介しましたが、シリーズを執筆された本願寺史料研究所研究員の岡村喜史氏は、私が中央仏教学院で学んでおりました時の「真宗史」のご担当でした。温厚なお人柄の先生とその授業の様子を思い出しながらシリーズを読ませていただき、また参考にさせていただきました。お礼申し上げます。

 (このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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