FC2ブログ

624.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (52):下巻補(6)

20200323西念寺       20200323恵信尼公像

 今回は、京都での親鸞聖人のご様子、お住いのことです。

 以前このブログでもご紹介しましたように、聖人のお住まいについて『御伝鈔』では「都でのお住居(すまい)も、一処に定住するのも好まず、あるときは右京に、またあるときは左京にと、あちらこちらへお住居を移されました。その中では五条西洞院のあたりが気に入ったとのことで、しばらくそこに落ちついておられました。」(訳は平松令三氏によります)と記されていました。

 その後の聖人のお住いのことは『御伝鈔』にも記されておらず、ご臨終を迎えられた場所が「押小路の南、万里小路より東」であったとだけ記されています。

 『御伝鈔』には記されていないのですが、その間に聖人は火災に遭われたことが伝えられています。建長7年(1255年)の12月、聖人83歳のときだとされています。
 聖人ご自身がこの火災について記されたお便りが高田派の専修寺に残されていて、聖人は「この十日の夜、せうまうにあうて候ふ。」と記されています。12月15日付けのお便りですから、「12月10日にせうまう(焼亡:火災)に遭った」とされているものの、これだけでは何年の12月なのかはわかりません。
 ところが、奥様の恵信尼公(越後に戻っておられます)が末娘の覚信尼公(親鸞聖人とともに京都におられます)に送られた書状が西本願寺に残されていて、先に与えた「譲状(ゆずりじょう)」を火事で焼いたと聞いたから再発行する、ということが記されているのだそうです。この恵信尼公の書状が建長8年9月15日付けだということで、聖人が火災に遭われた12月は建長7年のことだとされることになったということです。

 このように、聖人は83歳の晩年になって、火災に遭い住居を移さなければならないというご辛苦を体験されることになりました。

 今回の出来事は聖人がご苦労されているところで申し訳ないと思いながらも、複数の古文書を突き合わせて歴史を解読する面白さも感じながら読んでおりました。
 また、前回恵信尼公は親鸞聖人とご一緒に京都に向かわれ、その後建長8年(1256年)までには越後に戻られた、としていましたが、それもこの建長8年付けの書状が根拠になっているようです。

(写真は、茨城県笠間市の西念寺本堂と同寺に安置されている恵信尼公のお像です)
 
 以前にもご紹介しましたように、西念寺は聖人が常陸国に庵を結ばれた稲田の地に建立されたお寺です。
 お寺の内陣の中央には阿弥陀如来立像、向かって右には親鸞聖人御影像が安置されていてこの配置は浄土真宗の寺院と変わりがありません。ただ、向かって左には写真の恵信尼公の御影像が安置されているということで、この点が違っています。
 これは、親鸞聖人を支えられた恵信尼公に対する関東の門信徒の尊崇の思いが厚かったことを示している、とされています。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR