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619.母が亡くなりました(2)

 20200306オオガハスs

  母の葬儀が終わってから2週間が経過しました。その間に2人のご門徒さんが亡くなり葬儀をお勤めしたこともあって、バタバタとしてあっという間だったように感じています。
 これまでもご門徒さんのお宅でお別れのお勤めしてきましたが、気づいてみると実質的に自身が喪主となった葬儀は初めてでした。30年以上前に父が亡くなった時も喪主は私になっていましたが、寺から離れていたこともあって内容にはほとんどタッチせずに任せきりの葬儀でした。
 ご門徒さんはこのようなことについても悩みながら判断されていたのだ、と今回初めて気づいたこともありました。

 その中の一つは、「終末医療」に関わることです。

 母はもともと心不全で心臓が肥大するという症状を持っていましたが、昨年11月末に、日ごろからお世話になっていたかかりつけの医師の勧めで総合病院に入院することになりました。
 入院してしばらくして食が細り、ほとんど食べ物を受けつけなくなりました。そのような状況で、担当の医師から以後の治療方針について説明を受けました。
 食事ができていない現状では必要な栄養が摂取できないので、今後の治療方法として、胃に管を挿入して栄養を与える、鼠径部の血管に点滴をして栄養を与える、現状の点滴(これには栄養分を与える効果はないのだそうです)を続けて様子を見る、の3つが考えられる。どれを選択するかご家族で検討してもらいたい、ということでした。

 食事ができていない母は、一気にやつれたように見えていました。この医師の説明を聞いて、鼠径部の血管への点滴で栄養を与える方法を選択したいと医師に回答しました。医師の意見もその方法がよいと思う、ということでもあり、「そうすれば元気になられますよ」という言葉も後押しをしていたように思います。また、胃に管を通して栄養を補給すること(胃に直接栄養を送る胃ろうという療法に近いイメージがありました)に比べて点滴の方が穏やかな療法のように思えたこともその判断の背景にあったように思います。

 母は血液の凝固を防ぐ治療も行っていましたので、鼠径部の血管に点滴を行うためには出血を防止するための予備の処置が必要だということで、点滴のための処置は翌週に行うことになりました。
 医師にその意思を伝えた後に、この判断が本当によかったのだろうか、という思いが起こりました。点滴で栄養を与えて「元気に」なったとしてもそれは点滴で維持されている「元気」であって、心臓を始めとする病気が治癒するわけではありません。このような治療を母は望んでいるのだろうか、母を苦しめることを長引かせるだけではないだろうか、という思いが強くなっていきました。母の意思とは関わりなく「元気な」姿を見たいと思っているのは私たちの勝手な願望ではないかという思いです。

 30数年前に父はがんで亡くなりました。病状が悪化したときに、人工呼吸器をつけることもできるという提案が医師からあったという話を思い出しました。直接聞いたわけではないのですが、母はそれを断ったということでした。母は父のがんをなんとかできないかと、治療についてあちらこちらに尋ねて回っていたということも聞いていました。苦しい呼吸をしている父を前にして、人工呼吸器はいらない、と判断した母です。今回自分についても「もう食べたくない、もうこれでいい」と言っていた母ですから、点滴で「元気になる」ことは望んでいないのではないかと思いました。
 
 鼠径部への点滴を依頼してから2日後に再度医師に時間をとってもらって、鼠径部への点滴は行わずに現状の点滴のみでお願いしたいと話をしました。医師からは、現状の点滴だけでは栄養失調となるが、食欲が回復することを期待して消化薬を変えてみようと言っていただきました。
 その後、前回の記事でも書いていましたように、母の食欲は改善して、看護師さんの言葉によると出された食事を「完食」するまでになったということです。しかし、母はその後急性心不全により亡くなりました。

 医師に鼠径部への点滴治療を依頼してから、私は以前山口別院で聞いた公開講座の講話を思い出しておりました。
 患者を救いたいという医師の使命感と元気でいて欲しいという家族の望みの両方に従って、高度な医療技術は寿命を延長することを可能にしましたが、それが患者の意思とは別に進められて結果として患者を苦しめているのではないか、というお話でした。医療技術が現在ほど進んでいなかった時代には、食事が摂れなくなればそれが自然の死につながっていて、患者は「延命治療に伴う苦痛」を感じることなく命を終わることができました。現在ではそのような死を可能にするためには、家族が単なる延命治療を断るという強い意志を持たなければならない、ということになるのでしょうか。

 もう一つ、母が亡くなってから思い起したことがあります。
 それは、これもこのブログでご紹介した本「動的平衡」の中に紹介されていたことです。
 著者の福岡伸一氏は、人間の体はちくわのようなものだと言っておられました。一方の口から食物を摂り入れて他方の口から排泄しても、それはまだ体に取り入れたことにはならない、ちくわの本体の中に吸収されて初めて体内に取り込まれたことになるのだ、というお話でした。
 その観点から見ると、胃に管を通して栄養を補給することはちくわの体内に栄養を送り込むことにはならないことになります。一方、鼠径部の血管に点滴を行って栄養を送り込むことはちくわの本体に直接栄養を送り込むことに相当します。私は、前者の治療に対して抵抗感のようなものを感じていたのですが、後者の方が患者の意思とは別に、延命を行う治療に当たるものだったのかもしれません。

 このように思い返しながらも、今回の判断が本当によかったのだろうという思いも引き続き残っています。
 生老病死と4つの苦をいいますが、自分自身だけでなく近しい人の生老病死も、私自身の身勝手さ、弱さを浮き彫りにするものだということを実感させられました。母の死を目前にしてこのように悩んだことを忘れてはいけない、と思っています。

(写真は、オオガハスです)

 オオガハス(大賀蓮)は、大賀一郎博士が今から2000年以上前の地層で発見されたハスの実から育てられ開花したものです。
 大谷本廟で咲いていたものです。

(このブログは、毎週月曜日と金曜日に記事を載せるようにしていますので、また覗いてみてください)

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