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623.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(51):下巻補(5)

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 約1カ月ぶりに御絵伝に戻ってきました。
  関東でお弟子さんだった平太郎さんが熊野に詣でることになった逸話について記された、下巻第五段「熊野霊告」は前回で終わりました。御絵伝ではこの次の第六段は「洛陽遷化」と呼ばれ、親鸞聖人のご往生について記されます。

 今回は、聖人がご往生を迎えられるまでの間のことについて学びたいと思います。
 覚如上人の『御伝鈔』には記されていないことになるのですが、最初は、聖人のご家族に関することです。このブログでも時々恵信尼公のことが出てきましたが、聖人のご家族については『御伝鈔』でも記述がなかったこともあって、余り触れることがありませんでした。

 一部は以前の記事と重複する部分もありますが、赤松俊秀氏の『人物叢書 親鸞』によって聖人のご家族に関する記述を整理してみます。

 赤松氏は、親鸞聖人は元久2年(1205年)33歳のときに京都で恵信尼公と結婚されたとされます。聖人が法然聖人の許を訪ねられたのが1201年ですから、その4年後ということになります。1205年はまた、親鸞聖人が法然聖人から『選択集』の書写を許された年でもあります。
 親鸞聖人は二度結婚されたとする説もあったのだそうですが、赤松氏は、それは資料の誤読などによるものだと否定しておられます。
 恵信尼公の父上は、三善為教という下級官人で、越後国にも関わりのある役職についていた人のようです。このことは、親鸞聖人の配流先が越後国にされたことや、さらには後に恵信尼公が晩年を越後国で過ごされることになったこととも関連しているとされています。

 お二人の間にお子様は6人おられました。
 承元5年(1211年)越後国で第3子に当たる信蓮房明信が誕生されました(そのことは『恵信尼消息』と呼ばれている恵信尼公のお手紙に記されているということです)が、それ以前に京都で小黒女房、善鸞の1女1男がおられたようです。その後、益方有房、高野禅尼、覚信尼の3方が生まれられ6子となります。
 約20年の関東生活の後に聖人は京都へ戻られます。聖人が京都に戻られたのは60歳から62,63歳の頃、1233年から1236年の頃だったのではないかとされていますが、それよりも早く1230年までには京都へ帰っておられたとする説もあります。

 その際に、このご家族はどうされたのか、という点についても見解が分かれているようです。
 関東での生活を切り上げられる際に、恵信尼公は聖人と別れてゆかりのある越後に帰られたとする説もあり、公は聖人とご一緒に京都へ戻られたとする説もあるようです。これについて、赤松氏は関東から京都へはご一家で帰られたとする立場をとっておられます。
 聖人と一緒に京都に帰られた恵信尼公は、その後建長8年(1256年)までには、聖人と別れて越後国に移られたとされています。これは越後国にあった実家の三善氏の所領を管理することが必要となったためではないか、とされています。
 こうして、恵信尼公は越後国で小黒女房、信蓮房、益方有房の3方と生活をされ、一方末娘の覚信尼公は京都に残られて晩年の親鸞聖人のお世話をされることになりました。

 第2子に当たる善鸞さんについては、晩年の親鸞聖人を悩ませる事件を起こした人物として伝えられていますが、その経緯につきましては次回以降で学びたいと思います。

(写真は、西本願寺本の御絵伝、「熊野霊告」です)

 これまで見てきましたこの場面でも、奥に聖人と熊野権現、手前に眠っている平太郎さんが描かれていました。今回の絵ではその中間の部分に特に多くのスペースを割かれていれ、まるで、中間の人々が主人公のように思える程です。なにか意図があってそういう構図になったのでしょうか、分からないところです。

(ブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を掲載する予定ですので、また覗いてみてください)
 
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