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611.最近の話題(42):日高実夫氏の自筆原稿(3)

20200203自筆原稿s   20200203眺望s

  3回目になりますが、日高実夫さんが残された自筆原稿の一つ「哀々たる古城跡」をご紹介します。
 この古城といいますのは、以前このブログでもご紹介した「信田丸城(しだのまるじょう)」のことで、大内氏の時代、万倉の領主だった杉氏の居城として築かれたものです。大内義隆公が討たれた「大寧寺の変」に際して、この城も陶晴賢勢に攻められ、落城しました。壽福寺の起源には諸説あるのですが、この変に関わるものだとする説もあります。

 今回の原稿は平成2年(1990年)と記されていて、日高さんがこの信田丸城址に登られた時の城跡の様子とその時の思いを綴られたものです。
 その原稿によりますと、日高さんは原稿執筆の7年前の1983年に城跡に登られたとされていますので、74歳前後の年齢だったと推定されます。同じ年に、このブログでもご紹介しました『寿福寺とその里』という冊子を作製され、前回ご紹介しました「米噛み岩」に関する原稿がその前年の1982年ですから、この頃に懐かしい黒五郎の地を思い出されてこれらの文章を記されたものと思われます。

 その日高さんは当時の城跡について次のように記されています。
 「登山道口に至って見ると豈に図らんや、曾つては歴然としていたにも拘わらず草木生い茂って登路らしき形跡も無い有様になっていた。止むを得ず方位を確め方向を定めつつ樹木蔓草の間を縫い乍ら漸く山上に辿り着いて見れば、往年の如き城址の影観は全く無く何処にも感ずることさえも出来ない鬱蒼たる自然林に化していたのである。」
 日高さんが黒五郎におられた頃(戦前です)には、「山上の城址に何時登って見ても清掃が至って良くされていて殊に眺望に特別気が配られていて四辺の樹木や蔓草が伐り払われていたので眺望が甚だよく、内陸部はもとより内海が殊の外良く見渡されたのである。」といった城跡だったのですが、大きく姿を変えていたのです。

 日高さんによりますと、戦前は城の南の地域、現在「城南(じょうなん)」と呼ばれている地区の方々が、この城跡を大事に維持しておられたのだそうです。現在はこの地区に住んでおられる方は1軒だけとなっていますが、日高さんが登られた当時、すでに城跡は樹木がうっそうと茂った状態になっていたようです。

 城跡には、明治45年(1909年)1月に杉孫七郎子爵が建立された石碑があるのですが、それも日高さんが訪れた頃には「碑は何処にあるか見当さえもつかないけれども、よもや持ち去られるなどのある筈はないと思い、鬱蒼たる中を右往し左往して小半時も探し廻ったのである。すると一木の蔭に碑らしきものが、チラッ、と見えたのである。木の間を透かしてよくよく見ると、その一木に縋るかのように悄然として立っているのである。」という姿だったと記されています。

 そして、日高さんは明治の文豪高山樗牛の文章を引用されます。
 「(後人碑を建て之に銘するは其心素より其の英名を不朽に傳へんとするにあり。然れども、)星遷り世變り、之が洒掃の勞を取るの人なく、雨雪之れを碎き、風露之れを破り、今や塊然として土芥に委するも人絶えて之を顧みず、先人の功名得て而して傳ふべきなし。思ひ一たび此に至れば、彼の廣大なる墓碑を立てゝ名の不朽を願ふものは何等の痴愚ぞや。嗚呼劫火烱然として一たび輝けば、大千旦に壞す、天地又何の常か之れあらん、」

 と、日高さんは、かつては大切に護られていた先人の遺徳をたたえる碑も荒れ果ててしまう姿を思い、さらには「相も変わらず広大な墓碑を建てて名の不朽を謀る者の多きことであらうか。」と私たちの姿も振り返っておられます。
 このように日高さんは、先の『寿福寺とその里』でも述べておられましたが、その地の人々が大切にしてきたこと、維持してきたものが失われていることに心を痛めておられることが感じられる文章です。

 その城跡は、現在は「信田丸城跡」として宇部市の指定文化財とされています。
 私はこちらに帰ってきてしばらくしてこの城跡に登ったことがあります。その後、一昨年6月に登ろうと計画したのですが、登り口付近の草と蔦に遮られて登ることを断念しました。
 今回、日高さんのこの文に出会いもう一度登ってみたいと思い、1月4日に登り口に向かいました。登り口には前回と同じように草と蔦がありましたが、冬のこととて払えば進むことができる程度で、約30分で頂上の城跡に至ることができました。頂上は日高さんが登られた当時とは違って、周辺の雑木は刈られ、瀬戸内方面など遠くの眺望が可能な状態にありました。城跡の広場も草が刈ってあって、記念碑もしっかりと残っておりました。
 有形、無形を問わず、地域の文化財は地域の住民が中心となって伝承し、維持することが理想なのでしょうが、信田丸城跡のように地域の住民がほとんどいなくなっているような実態もあり、これも難しい問題だと改めて感じました。

(図の、左は日高さんの自筆原稿、右は城跡から見た瀬戸内方面です。)

 日高さんは、この罫紙毛筆で書かれた原稿と、同じ内容を少し手直ししながら400字詰めの原稿用紙に書いた原稿の2種類の原稿を作成しておられます。冊子としてまとめようと考えておられたのかもしれません。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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