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607.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (47):下巻第五段(3)

20200120下巻第五段西本願寺s

  少し間が空きましたが、御絵伝に戻ってきました。今回は、下巻第五段の3回目になります。
 前回までの部分で、関東から京都に戻られた親鸞聖人のもとに、関東から教えを求めて多くのお弟子さんが訪ねてこられていたことが伝えられていました。
 その中に、平太郎さんという方がおられて聖人のもとを訪ねられました。平太郎さんは、仕えている武士のお供をして熊野権現に参拝しなければならず、神祇に参ることは教えに反しておりいけないことではないか、と親鸞聖人の教えを求められます。
 今回の段以降で、その平太郎さんの問いかけに対して親鸞聖人がお答えになった内容が記されます。

 仰せられてのたまはく、「それ聖教(しょうぎょう)万差(まんじゃ)なり、いづれも機に相応すれば巨益(こやく)あり。ただし末法の今の時、聖道門の修行においては成(じょう)ずべからず。すなはち〈我末法時中億々衆生 起行修道未有一人得者〉(安楽集・上)といひ、〈唯有浄土一門可通入路〉(同・上)と云々。これみな経・釈の明文、如来の金言なり。しかるにいま<唯有浄土>の真説について、かたじけなくかの三国の祖師、おのおのこの一宗を興行(こうぎょう)す。このゆゑに愚禿すすむるところさらに私(わたくし)なし。しかるに一向専念の義は往生の肝腑(かんぷ)、自宗の骨目(こつぼく)なり。すなはち三経に隠顕(おんけん)ありといへども、文といひ義といひ、ともにもつてあきらかなるをや。『大経』の三輩(さんぱい)にも一向とすすめて、流通(るずう)にはこれを弥勒に付属し、『観経』の九品(くぼん)にもしばらく三心と説きて、これまた阿難に付属す、『小経』の一心つひに諸仏これを証誠(しょうじょう)す。これによりて論主(天親)一心と判じ、和尚(かしょう)(善導)一向と釈す。 しかればすなはち、いづれの文によるとも一向専念の義を立(りゅう)すべからざるぞや。

 すると聖人は次のように仰せられました。
 「一口にみ仏の教えといっても、いろいろさまざまなものがあります。どの教えでも、受ける者の素質や能力にうまく合えば、悟りを開くという大きな利益(りやく)を得ることができましょう。しかし釈尊が亡くなられて二千年以上も経って、「末法」と言われる現在、聖道門の修行ではとても悟りは得られません。道綽禅師の『安楽集』の中に、「この末法の時代には、何億という衆生もいくら修行しても、一人としてそれによって悟りを得ることはない。ただ浄土門の教えだけが悟りに通じる道なのだ」と説かれています。
  これらはみな経典や高僧の註釈書に明記されているところで、釈尊のお言葉です。「ただ浄土門だけ」という真実の教えについて、ありがたいことにインド・中国・日本の三国の高僧たちがいろいろにお説きになり、浄土教という宗旨を興されました。ですから、この親鸞一人の勝手な考えではないのです。
  だいたい「一向専念」、つまりひたすら阿弥陀如来の本願を信じ、もっぱら念仏を申す、というのがお浄土への肝要な点であり、わが浄土教の眼目です。ですから、「浄土三部経」には顕説と隠彰がありますが、「一向専念」が重点であることは、辞句の上でも、その解釈の上でも明白です。『大無量寿経』の三輩段にも一向専念をすすめて、最後の「流通分」では、弥勒菩薩に念仏の教えを伝えるように託されています。また『観無量寿経』の九品往生が説かれている段では、至誠心、深心、回向発願心の三心をそなえて念仏せよ、と説き、これをまた阿難尊者に託しておられます。さらに『阿弥陀経』の六方段では、念仏による往生が真実であることが、あらゆる世界の仏たちによって証明されています。
 これらの「浄土三部経」によって、天親菩薩は「一心」、善導和尚は「一向」と解釈しておられます。ですから、どの文章を見ても「一向専念」を柱にして仏法を説かれなければならないのです。

 以前にも記しましたが、この下巻第五段は『御伝鈔』の中でも最も長文の段です。一般に伝絵のような絵巻物という形式は、絵が主体でその説明として詞書が記されるのが普通なのだそうですが、この段はその面からみても特徴のある段だとされているようです。
 その段の親鸞聖人のお言葉の最初の部分が本日の内容になっています。訳文は平松令三氏の『聖典セミナー 親鸞聖人絵伝』からいただいていますが、平松氏は聖人のお言葉の背景も含めて丁寧に紹介されていますので、訳文の方はさらに長文になっています。

 ここでは、親鸞聖人は教えを求めて訪ねてこられた平太郎さんに対して、浄土門のみ教えがインド、中国、日本の高僧方のおかげで私たちに伝わっていただいた、末法の世ではご本願を信じ念仏申すという浄土門だけが往生をいただく道なのだ、と大きな流れの中でお話ししておられます。
 この部分をお読みしていますと、『御伝鈔』を著された覚如上人は、親鸞聖人が平太郎さんに話されたお言葉を通して、後の世の私たちにご自身の思いを語りかけておられるような感覚を持ちます。

(図は、西本願寺本の伝絵の「熊野霊告」の場面です)

 前々回に載せました寺の「御絵伝」の同じ部分と比較しますと、専修寺本やこの西本願寺本は平太郎さんが聖人に教えをいただいておられる臨場感のようなものを感じることができるように思います。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)


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