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601.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (46):下巻第五段(2)

 
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 前回に続き、御絵伝の下巻第五段です。御文と訳文を記します。

 「そのころ常陸国(ひたちのくに)那荷西郡(なかのさいのこおり)大部郷(おおぶのごう)に、平太郎なにがしといふ庶民あり。聖人の訓(おしえ)を信じて、もつぱらふたごころなかりき。しかるにあるとき、件(くだん)の平太郎、所務に駈(か)られて熊野に詣(けい)すべしとて、ことのよしを尋ねまうさんがために、聖人へまゐりたるに、」

 「そんな中に、常陸国那荷西郡大部郷(いまの茨城県水戸市飯富町)の住人で平太郎という人がありました。ごく平凡な民衆の一人で、聖人の教えを信じて、迷うことがありませんでした。
 ところがあるとき、その平太郎は、その地方の領主に仕える役目の都合上で動員され、熊野詣をしなければならないことになりました。かねて神祇不拝(じんぎふはい)と教えられていたので、教えに背くことにならないか、どうしたらよいかを尋ねるために、聖人のところへやってきました。」

 前回の部分で、都に帰られた聖人のもとに、関東のお弟子さんが教えを受けたいと遠い道のりを越えて訪ねてこられていたことが記されていました。また多くの書が残されていますように、手紙で教えを請いそれに対して聖人から答えられるというやりとりが頻繁に行われていました。
 今回は、平太郎さんという方が常陸国から都の聖人のもとを訪ねられたという出来事です。

 この平太郎さんは常陸国の人で、領主が熊野詣でを行うにあたって、領主に従って一緒に詣でなければならなくなります。親鸞聖人の教えを堅く守っていた平太郎さんは、神祇を拝することはいけないことだと信じていましたので困り、聖人にどうしたらよいのか教えを請います。

 この熊野詣でというのは、和歌山県の熊野地域にある熊野三山(3つの神社)を中心に参詣することです。古くからおこなわれていたようで、平安時代以降には歴代の上皇も参詣を行ったとされています。その参詣の規模は、時に数千人の一行になったこともあったようです。後鳥羽上皇が法然聖人やそのお弟子さんを弾圧した承元の法難もこの熊野詣から帰京された後のことでした。
 その後、政治の実権が朝廷から武士に移行するに伴って、熊野権現のご利益を願って武士層が熊野参詣の主役になっていったということです。

 当時の武家勢力の中心は関東にありましたから、東国の武士層が遠く熊野の地までやってきたということになり、その場合も、多数の従者を引き連れての参詣となったことと思われます。
 東国で親鸞聖人の教えを受けた平太郎さんが、その一行として熊野に詣でることになったというわけです。

(図は、専修寺本の伝絵に描かれた場面です。)

 図に付されている言葉は左から、「聖人」、「平太郎まいりて、熊野詣の事たつね申ところ也」、「五条西洞院御房也」と読まれます。
 この「平太郎」の名前は、もともと「忠太郎」と記されていたものが書き直されたとするのが通説になっているということです。この段の詞書と画中の説明書込の全てがそうなっているのだそうで、最初の「忠太郎」の筆跡も覚如上人のものだそうですから、後になって書き改められたことになります。

 前回の自坊の御絵伝とは違って、聖人は多くのお弟子さんとともに平太郎さんにお会いになっています。折烏帽子をかぶり口ひげを生やしている平太郎さんの姿は、武士に従う家来らしい姿だと、平松氏は記されています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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「今年も有り難うございました」

 今年もブログの中で沢山、お勉強させて頂き、有り難うございました。来年も宜しくお願いします。
 分かりやすく解説して下さり、何度も読み返せます☺️
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