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596.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(42):下巻補(4)

20191209絵本

  しばらく離れておりましたが、御絵伝に戻ってきました。
 今回も「下巻補」としましたが、親鸞聖人の奥様である恵信尼公に関することです。恵信尼公についても、『御伝鈔』には全く触れられていません。

 以前ご紹介しました絵本『親鸞さま』の記述では、親鸞聖人は越後で結婚されたとされていました。その記事でも書きましたが、私は親鸞聖人は京都で結婚し、恵信尼公とともに配流先の越後に向かわれたと思い込んでいました。しかし、以前は越後で結婚されたとする説が有力だったようです。

 平松令三氏は『聖典セミナー 親鸞聖人絵伝』で、越後結婚説の背景に「流罪人が家族を連れて配流先に行けるはずがない」という思いがあったからだと言われています。ところが、当時の法令では、流人(流罪人)は「皆妻妾(さいしょう)棄放して配所に至ることを得じ」と定められていたのだそうです。家族を連れて行ってはいけない、どころか置いて行ってはいけなかったのだそうです。

 そのようなことや、ご子息信連房(1211年生まれ・聖人が越後で赦免の知らせを受けられた年、越後に移られてから4年後です)の上に姉の小黒女房(おぐろのにょうぼう)、兄の善鸞のお二人がおられることも含めて、親鸞聖人は法然上人のお弟子さんだったころに恵信尼公と結婚されたとする赤松俊秀氏の説が見直されるようになったと、平松氏は記されています。
 また、『恵信尼文書』に見られる、恵信尼公の洗練された「都ぶり」もその説の背景にあるということです。
 赤松氏は『人物叢書 親鸞』で、聖人が結婚されたのは元久2年(1205年)、聖人33歳の時だったのではないかとされています。この年は、親鸞聖人が師である法然聖人のお許しを得て、『選択本願念仏集』を書写され法然聖人のお姿を写された年です。

 このようにみてみますと、聖人は1201年に六角堂の夢告を受けて法然聖人の門下に入られ、1205年に法然聖人から『選択詩集』の書写を許され、同じ年に恵信尼公と結婚され、1207年の専修念仏弾圧により越後に配流となられたということになります。

(図は、絵本シリーズ『親鸞さま』の18,19ページです)

 この部分では、親鸞聖人が越後で恵信尼公と結婚されたことが記されています。本文は次の通りです。
 「越後に流された親鸞さまは、これをきっかけに『愚禿(おろかな)親鸞』と名のられました。おろかな身になって、あみださまのおおきなお慈悲のこころをいただかれたのです。
 流罪のきびしい生活は、親鸞さまのこころをさらに豊かにしました。お念仏をよろこぶ仲間がふえ、やがて、恵信尼さまと結婚されたのです。家庭をもって、みんなと一緒に苦しみやよろこびをわかちあいながら、お念仏を申す生活に入られたのでした。」

(ブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事をついかする予定ですので、また覗いてみてください)


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