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590.歴史を訪ねる(24):真宗高田派本山専修寺


 先にご報告しましたように、念仏奉仕団の3日目は、長島一向一揆に関わるお寺の桑名市長島の願証寺にお参りした後に、津市にあります真宗高田派の本山専修寺にお参りしました。
 真宗高田派は、先に学びましたように親鸞聖人が常陸国におられた頃の有力な門徒集団であった高田門徒にその起源持っています。

 高田門徒は、聖人の高弟であった真仏師を中心として高田(現在の栃木県真岡市高田です)の地に形成された門徒集団でした。
 最初、高田の地に念仏の道場「専修寺」が建立されました。1225年といいますから、親鸞聖人が『教行信証』の草稿を完成された翌年になります。本尊には長野の善光寺に由来する一光三尊仏(一つの光背を背に阿弥陀さまを中心に観音菩薩、勢至菩薩の三尊をいただいた像です)を迎えられ、これが今も高田の専修寺の本尊として伝えられています。

 その後、「その門下は関東から東北地方、東海地方に及び、初期浄土真宗の中心的な位置を占め、大谷廟堂の護持にも尽力した」(『浄土真宗辞典』)有力な浄土真宗の門徒集団となりました。

 専修寺の第10代法主、真慧(しんね)師は、東海、北陸方面に教線を広げた「中興の祖」とされる方で、津の一身田に伊勢国の中心寺院として「無量寿院」を建立されました。文明年間とされていますので、1469年から1487年の頃ということになります。
 その後、戦国時代に高田の専修寺が戦火で焼失したこともあって、一身田の無量寿院が高田派の本山とされるようになりました。これが現在の「本山専修寺」で、一方の高田の専修寺はその後再建され「本寺専修寺」として継承されています。

 その間、本願寺と高田派(高田門徒)との間では、一向一揆の中で敵味方に分かれて戦ったり、勢力争いを繰り広げたりと、様々な経緯がありましたが、現在では真宗教団連合(真宗の十派の連合)として共に親鸞聖人のみ教えを広げる活動を行っています。

 念仏奉仕団のメンバーは、本山専修寺のご担当の方に境内や建物の中を案内していただきました。
 山門を入りますと、広い敷地の右手に親鸞聖人の木像を安置する「御影堂(みえいどう)」、左に阿弥陀さまの木像を安置する「如来堂」が配置されていました。本山専修寺の伽藍も二度の火災に見舞われたのだそうですが、再建された両堂は2017年に国宝に指定されています。
 境内や両堂を案内していただき、伽藍建築のご苦労や見どころについて、時にユーモアも交えて説明をいただきました。

 御影堂、如来堂に向かってそれぞれ切石を敷いた通路がありました。その石の縦の列が、御影堂では18列、如来堂では17列になっていると説明がありました。それぞれ四十八願の第十八願、第十七願にちなんで設けられたのだそうです。

 また、以前にもご紹介したことがありますが、善光寺との関わりを示しているとされる「高田の一本松」を拝見することができました。仏花にかわるものとして、大きな花瓶に大きな松が一本だけ生けてありました。案内の方は「花を生ける必要がないから簡単そうに見えるかもしれませんが、これも大変なのです。」と言っておられました。そのために松を栽培しているのだそうです。

 親鸞聖人は1232年頃には京都にお帰りになりましたが、京都に戻られてからも、関東の門弟方にお手紙を送り、あるいは書写した書物を送るなどして引き続きみ教えをお伝えになりました。そのようなことから、多くの聖人直筆のお便りや書物が高田派に伝わっています。それらは境内の宝物館に収められているのですが、残念ながら現在は工事のために閉館されていて拝見することができませんでした。

 次の写真、左は如来堂の内陣、右は如来堂の外観です。いずれも専修寺さんのHPからお借りしています。
 左の写真に「高田の一本松」が写っています。右の写真では、複雑な組物を見ることができます。

    20191118専修寺4     20191118専修寺3

(最初の写真の左は御影堂、右は如来堂です。写真は自身でも撮影したのですが、よい写真がなくネットからお借りしました。)

 切石の列を数えると、確かに18列、17列になっています。
 御影堂は1666年に、如来堂は1748年に完成しました。如来堂の建設に当たっては、軟弱な地盤に苦労され、建設資金にもご苦労があったと逸話をお聞きしました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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