FC2ブログ

589.掲示を変えました

20191115掲示   20191115掲示2 

 報恩講をお迎えするに当たり、掲示を変えました。掲示は、次回の法座のご案内と「ひとこと」の2枚を貼っています。

 今回の「ひとこと」は次の通りです。

 「終わりある命、見まもられ 輝いて生きる」

 この季節になりますと、喪中の連絡をいただくはがきが来るようになります。データをとっているわけではありませんが、ここ数年その数が増えてきたように感じています。もちろんその中では先輩や年長者の方に関するものが多いのですが、同年輩や後輩に関するものも増えてきています。
 あの時会ったのがのが最期だったのだなあ、もう一度お会いしたかったなあ、などと思うことが多くなりました。

 今回の掲示の言葉は普通にいうと「限りある命、見まもられ 照らされて生きる」といったような言葉になるのでしょうか。

 「限りある」と「終わりある」ですが、「限りある」というとどこか他人事のような語感があるように思えて、「終わりある」にしました。喪中はがきでその感を強くしたところもあります。

 「照らされて」と「輝いて」ですが、この終わりある命を「輝いて」生きていたい、という思い、しかし私が「輝く」といっても、それは私自身が輝くのではなく、私は照らされて輝くのだという思いです。私を見まもり照らしていただく方があって、この命には終わりはあるが、その時それで終わる命ではない。だからこそこの終わりのある命を力いっぱい生きてくれと呼びかけられる声があり光があります。その光を受けて私は明るく輝いて生きていけるのだ、という思いです。その意味では、私は自ら光を発する「恒星」ではなく照らされて輝く「惑星」ということになるのでしょうか。

 また、春の法座でご講師が紹介された岡本かの子さんの歌を思い出しておりました。かの子さんは、
 「年々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐ命なりけり」
 と、詠まれていました。

 年を重ねるに従って、背に負う「老病死」の苦しみや悲しみはいよいよ増していきます。しかしかの子さんは、苦しみや悲しみがあって死に至ればそれでおしまいという命、ではない命に気づかれ、それを「いよよ華やぐ命」と詠まれました。阿弥陀さまに見まもられ、命終わる時に間違いなく新しい命を生きる、ということを聞かせていただき、私の命は「華やぎ」、「輝く」ものになるのだと聞かせていただきました。 
 
(写真は、掲示の言葉と石段横の掲示板です)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR