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581.山口真宗教学大会に出席しました

20191018田中氏s  20191018バッジs

 10月11日、山口別院で開催されました第33回山口真宗教学大会に出席しました。
 この山口真宗教学会は、1987年に「山口教区に於ける真宗教学の研鑽振興を期すること」を目的として設立された組織で、教学大会を始め研究会の開催や会報の発行などの活動を行っておられます。
 当日は、その教学大会で総会に引き続き研究発表および記念講演が行われました。

 記念講演は「アメリカ仏教における浄土真宗ー日本を含む現代仏教としてのモデルとなるかー」という演題でご講師にケネス田中氏を迎えて開催されました。
 田中氏は美祢市出身だと仰っておられましたが、若くして日系二世のご両親とともに米国に渡られ、米国の大学で仏教について学ばれた方で仏教学者として国際的に活躍しておられます。

 氏の講演のポイントは、「先進国での宗教のあり方が変わりつつある」、「そのことが日本の仏教に対して与える影響について考えなければならない」ということでした。

 氏によれば、先進国での宗教のあり方が「信じる宗教」から「目覚める宗教」に変化しつつあるということです。当日配布されたのとは別の情報なのですが「キリスト教から仏教に改宗した人たちに尋ねると、キリストの復活を「信じる」ことより、煩悩による誤った見方を是正して自らが「目覚める」ことを究極の目的にする仏教の考え方が魅力的だと答える人が実に多い。」という文章がありました。
 ここでは、「目覚める」ということは煩悩による誤った見方を棄てて、正しい見方を身につけ、自らが目覚めることをめざす道が示されているようです。私自身がブッダ(目覚めた人)になることを目指すものです。氏も仰っておられましたが、海外で禅に対して注目が集まっているのはそのことを反映しているようですし、「瞑想」(「マインドフル瞑想」と呼ばれるものもあるようです)もその方法として広く行われているということです。

 氏は当日の資料の「まとめ」の中で、次の4点を記されています。
 「真宗の理解はアメリカでは、「目覚める宗教」的な捉え方が主流である。但し、「信じる宗教」的な捉え方も、熱心(熱烈?)な少数の改宗者の間で見られる。従って、真宗において「幅広い解釈」(ができる)」
 「この「目覚める宗教」的な捉え方は、釈尊や親鸞の教えに沿っている」
 「この「目覚める宗教」的な捉え方は、現在、特に先進国に高まっている。これも欧米人が仏教へ興味を持つ要因になっている」
 「同じ傾向は、仏教に興味を持つ日本の若者にも顕著である。そういう意味でも、本研修会のテーマの示唆となると思われる」
 
 講演をお聞きしていて、感じたことを記しておきます。

 まず、重要なキーワードである「目覚める」ということの受け止め方が難しいものだと、改めて感じました。
 欧米で「目覚める」宗教に注目が向けられているという場合の「目覚める」は、「煩悩から自由になって正しい見方ができるようになる」、という意味で使われているように思われました。そのために禅宗のように座禅をする、あるいは流行を迎えつつあるという「瞑想」に取り組む、ということが重要だとされるようです。
 そのようなときに私たちは煩悩を克服して正しい見方ができるようになるのだろうか、正しい行動がとれるようになれるのだろうか、という問いがいつも頭に浮かんできます。そうしたい、そうしなければならないと思いながらも、気がつけば自分中心にものを考え、怒り嫉みから自由になれない、そのような私たちの姿が浮かんできます。

 そのような私たちでも、「そのままでいい」と受け止めていただく阿弥陀さまがおられる、阿弥陀さまにお任せするしかない、と気づかせていただくこと、そのことが「目覚める」の意味ではないか、と思います。
 とすると、私たちは「目覚める(気づく)」から「信じる(お任せする)」となり、氏が言われるアメリカでの動きとは逆の方向に進んで行くのだともいえるかもしれません。
 田中氏がお話しの中で紹介された「一般仏教は目覚めだが、真宗は救済教だ。」という真宗学の大学教員(多分米国の人だと思います)の言葉は、そのことを言い表しているのかもしれません。

 次いで、「瞑想」をどのように位置づけるかということです。講座の中でも実際に「念想(瞑想との違いはよく分かりませんでしたが)」をする機会がありました。
 田中氏から求められたアンケートの設問に、次のような念想に関するものがありました。(  )内は私が記載した回答です。
 「今日行った念想は、「自力」の行だと思いますか?」(思わない)
 「日本の真宗活性化のため、念想のような行いをもっとした方が良いと思いますか?」(分からない)
 最初の設問ですが、念想を自分の力で煩悩から自由になろうとするのではなく、自身の姿を振り返り気づくための方法とすることもできるように思い、この回答にしました。後の方の宗教活性化との関係は、判断が難しいというのが実感です。「はやりの」瞑想と「気づき」の違いをどのように理解してもらえるか、というような課題があるように思いました。

 会場の役員からの声にありましたように、日本の仏教の多くが「家の仏教」になっている点が、欧米との大きな違いではないかと感じています。「信じる」から「目覚める」あるいは逆の動きであっても、その前に「家の仏教」を残しつつも、それと併せて「私一人の仏教」への転換が必要なのではないかと感じました。

 いずれにしても、今回の講座で、米国での宗教の動きや米国で仏教や浄土真宗がどのように受け止められているのかということについてその一端に触れる事ができました。この点についてはさらに学んでいきたいと思います。

(写真左は講演中の田中氏、右は当日会場でいただいたバッジです。)

 このバッジについて少し補足しておきますと、当日会場入り口に5種類のバッジが置いてあって、気に入ったのを一つ差し上げます、ということになっていました。このバッジはアメリカ仏教伝道協会が伝道の「道具」として配っているもので、衣服やカバンに付けてメッセージを活かしてもらうものなのだそうです。
 このようにバッジを使って「伝道する」というのもアメリカ的だなと感じました。

 私はこの「What if the show ends tonight ?(今晩が人生の最後だったらどうする?)」のバッジを選びましたが、他の4つは次のものでした。(カッコ内はいずれも田中氏の資料に記された翻訳です。)
 "Hatred is not Overcome by Hatred"(怨みは怨みによって治らない)
 "Could I be Wrong ?"(もしかしたら、私が間違っているかも)
 "Does it really matter ?"(それは、それほど気にしなければならないものなの?)
 "Bothered by G.A.S. ?"(三毒に惑わされていますか?):G(Greed)=貪欲、A(Anger)=瞋恚、S(Stupidity)=愚痴の三つの煩悩で「ガス」です。 

 このバッジの「What if・・・」でふと思い出したことがありました。
 それは、高校時代ですからもう半世紀以上も前なのですが、この「What if・・・」で始まる文章には二つの意味(ニュアンス)があると教わったことです。
 それは「・・・ならどうしよう」と「・・・だとて何をかまうことがあろうか」の二つニュアンスなのですが、それからいくと上の「what if 」は前者のニュアンスのように思われます。しかし、死が間違いなく来るものだと知り、死について恐れを持たず、今を力いっぱい生きている者にとっては、このバッジは「今晩が人生の最後であるとしても、一向にかまわない」という思いを表してくれるものにもなりそうです。
 大昔のことを突然に思い出させてくれるバッジでもありました。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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