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579.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (39):下巻補(1)

20191011信巻序   20191011本典

 しばらく間が空きましたが、「御絵伝」に戻ってきました。

 聖人が越後から移られて関東におられたのは約20年になりますが、その間の出来事として『御絵伝』に取り上げられたのは、すでに見ました下巻第二段(稲田興法の段)と第三段(弁円済度の段)の2件のみです。今回は「御絵伝に見る」というタイトルですが、親鸞聖人が関東におられた頃の出来事で『御伝鈔』や『御絵伝』には取り上げられていないことについて学びたいと思います。

 その最初は、『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の著述に関することです。
 『教行信証』は『広文類』とも呼ばれ、また浄土真宗の最も大切な聖典として『ご本典』ともお呼びしている親鸞聖人の主要な著書です。本書は6巻からなっていて、その中で聖人は仏典を始め多くの典籍を引用されて浄土真宗の教義体系を明らかにされています。原文は漢文で書かれていますが、延べ書きとして収録されている『浄土真宗聖典(註釈版)』では340ページを超える大部の著書です。

 この『教行信証』がいつ頃どのような目的で著述されたのだろうか、と古くから議論がなされており、多くの説が出されたようです。

 まず、著述の時期です。 

 このブログでもお知らせしておりますように、浄土真宗本願寺派では『教行信証』は元仁元年(1224年)に最初の草稿が完成したとされ、この元仁元年を浄土真宗の開宗の年として、2023年に「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年」を慶讃して法要がお勤めになります。
 元仁元年といいますと、聖人は52歳、建暦3年(1214年)越後国から常陸国に移られてから約10年になります。また、聖人は寛喜4年(1233年)には京へ戻られていたとされていますので、帰洛の約10年前の時期になります。
 この元仁元年が『教行信証』の草稿本成立の年とされているのは、『教行信証』の「化身土巻」の中で末法の年代を算定する基礎として「わが元仁元年」という記述があることによります。

 この『教行信証』の「草稿」に当たる本はまだ見つかっていないのだそうですが、聖人ご真筆の「坂東本」が東本願寺に伝えられています。この「坂東本」は、聖人がお書きになった草稿を聖人ご自身が書き写されたもので、国宝に指定されています。
 この「坂東本」を研究された赤松俊秀氏(「坂東本」の解装修理に携わられた人です)によりますと、「坂東本」は文暦元年(1234年)頃(聖人が京都に戻られた頃)に元の草稿本から書写されたものだとされています。赤松氏は、上記の「元仁元年」の記述が元の草稿本にもあったかどうか確かでなく草稿本の完成時期とは関連がないとされていますが、草稿本は元仁元年までには完成しており、その後聖人はこの「板東本」に対して何度も多くの追加や修正を加えられたとされています。
 
 一方、聖人は京都に帰られてから『教行信証』の著述をされたとする説も主張されていました。
 本願寺第3代宗主覚如上人のご長男存覚上人は、『六要鈔』という『教行信証』の注釈書(最初の注釈書とされています)の中で、『教行信証』について「此の書、大概類聚の後、上人いくばくならずして帰寂の間、再治に及ばず」と記されているそうです。つまり親鸞聖人は『教行信証』を書き上げて間もなくお亡くなりになった、とされているわけですが、このことが『教行信証』は聖人が京都に戻られてから著されたとされる根拠となったようです。
 その他、様々な論拠から親鸞聖人は帰洛の後に『教行信証』を著されたとする論が主張されていて、聖人は『教行信証』を書くために京都に戻られたのだという説もあったようです。

 さらには、越後に配流されている頃から著述を開始されたのだという説も唱えられていて、聖人が越後国から常陸国に移られたのは、『教行信証』を書くためだとする論もあったようです。

 いずれにしても、『教行信証』は一度で完成されたものでなく、最初の「草稿」が出来上がった後にも何度も手を加えられ、存覚上人が言われたようにまだその途上にあったのかもしれません。聖人は『教行信証』の構想を越後国の時代から懐いておられ、「草稿」は常陸国時代に成立し、その後の帰洛後も何度も手を入れられた、と見ることも可能なのかもしれません。

 次いで、聖人が『教行信証』を著された理由です。

 聖人は『教行信証』の総序(最初の置かれた全体の序)で次のように記されています。
 「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。」
 (ここに愚禿釈の親鸞は、よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた。そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ、如来の恩徳の深いことを明らかに知った。そこで、聞かせていただいたところをよろこび、得させていただいたところをたたえるのである。)
 また本書の最後の部分で、親鸞聖人は法然聖人との出遭いや法然上人から『選択集』の書写を許されたことなどを感激をもって記されています。

 このように、親鸞聖人は、法然聖人はじめインド、中国そして日本の祖師方のおかげで、阿弥陀さまのお救いの力を説かれるお釈迦さまの尊い教えに遭うことができた、とその喜びを記されていて、『教行信証』は親鸞聖人がご自身の喜びを記され、ご自身の信を確認された書だといえます。

 一方、当時の時代を見ますと、承久3年(1221年)後鳥羽上皇(「承元の法難」により浄土教を弾圧した人でした)が幕府に対して起した乱は失敗に帰し、上皇は隠岐に流され以後朝廷は幕府の支配のもとに入ることになります。
 貞応3年(1224年)(元仁元年と同じ年です)には、延暦寺衆徒の訴えにより専修念仏停止の宣旨が出され、3年後の嘉禄の法難につながります。それは鎌倉幕府の意向もうけて関東の念仏者にたいする圧迫にもつながるものとなりました。
 また法然聖人のもとで共に法然聖人に教えを受けた同朋の間にも考えの違いが表面化し、親鸞聖人のもとにあった方々の中にも聖人のお考えとは違った方向に進み始めた人々があったと伝えられます。
 このような時代を背景にして、聖人は浄土の教えのあるべき姿を示したいとお考えになったともされています。文末に示しました「信巻序」を読んでいますと、その聖人のお心が述べられているように思われます。 

 このように、親鸞聖人は、一つには阿弥陀さまのお救いに遭うことができた喜びを記し、ご自身の信を確認され、二つには当時の同信の人々や在来の仏教界に対して正しい道を示そうと『教行信証』を著されたのだと思います。

 ちょっと長くなりますが、最初に戻って、御絵伝の作者である覚如上人はなぜこの『教行信証』著述のことを御絵伝に取り上げられなかったのだろうか、という疑問があります。『教行信証』は親鸞聖人が著された重要な書であり、浄土真宗の基本的な聖典とされるものですから、なぜなのだろうという疑問がでてきます。
 これについて、平松令三氏は、覚如上人は伝絵の制作に先立って関東を訪ねられて親鸞聖人から直接教えを受けられた方々から話を聞かれたのですが、その時には関東のお弟子さんから聖人が『教行信証』を著しておられたことを聞き出せなかったのではないか、とされています。覚如上人が伝絵を制作されたのが永仁3年(1295年)、聖人が関東を離れられてから60年以上経過していますので、そのような背景があったのかもしれません。
 あるいは、これも平松氏が書いておられるのですが、『教行信証』著述という事実は重要なことですが、絵にするとなると余りインパクトのあるものではなかったのでしょうか、それで伝絵に取り上げられなかった、といったようなこともあったのかもしれません。

(図左は坂東本『教行信証』の「信巻序」、右は得度の際に本山でいただいた「ご本典」の該当部分です。)

 ここには、次のように記されています。
「それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。
 しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。
 ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出す。まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥ぢず。浄邦を欣ふ徒衆、穢域を厭ふ庶類、取捨を加ふといへども毀謗を生ずることなかれとなり。」
(さて、考えてみると、他力の信心を得ることは、阿弥陀仏が本願を選び取られた慈悲の心からおこるのである。その真実の信心を広く明らかにすることは、釈尊が衆生を哀れむ心からおこされたすぐれたお導きによって説き明かされたのである。
 ところが、末法の世の出家のものや在家のもの、また近頃の各宗の人々の中には、自らの心をみがいてさとりを開くという聖道門の教えにとらわれて、西方浄土の往生を願うことをけなし、また定善・散善を修める自力の心にとらわれて、他力の信を誤るものがある。
 ここに愚禿釈の親鸞は、仏がたや釈尊の真実の教えにしたがい、祖師方の示された宗義をひらきみる。広く三経の輝かしい恩恵を受けて、とくに、一心をあらわされた『浄土論』のご文をひらく。ひとまず疑問を設け、最後にそれを証された文を示そう。心から仏の恩の深いことを思い、人々のあざけりも恥じようとは思わない。浄土を願うともがらよ、娑婆世界を厭う人びとよ、たとえこれに取捨を加えることがあっても、真実の法を示されたこれらの文を謗るようなことがあってはならない。)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

(お詫びです)

 今回の記事を作成の途中で掲載してしまいました。掲載予定日時の設定を誤ったことによります。トホホ・・申し訳ありませんでした。
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