FC2ブログ

571.歴史を訪ねる(21):長島一向一揆(2)「願証寺」

20190913古地図  20190913地図

 これまで、「歴史を訪ねる」として、「一向一揆」「長島一向一揆」について学びましたが、今回は長島一向一揆に関連の深い願証寺(願證寺:10月に予定されています念仏奉仕団の3日目にお参りする予定です)について情報をまとめておきます。旅行の「しおり」の「一向一揆と願証寺」の記事の資料としたいと思います。

 願証寺は、本願寺の第8世蓮如宗主の6男蓮淳(れんじゅん)上人(1464~1550年)が第9世実如宗主の命により、創建されたと伝えられています。また、願証寺はそれより早く文永元年(1264年)に開かれ、願証寺の寺号を本願寺第3世覚如宗主より受けており明応6年(1497年)に蓮淳上人を住職として迎えた、とする説もあるようです。
 いずれにしても願証寺は天文6年(1537年)までに寺基を長島(七島とも呼ばれ、当時は七つの島からなっていたようです)に持ち、長島は願証寺の門前町としても賑わったと伝えられています。

 蓮淳上人は第10世宗主の証如上人の外祖父にも当り、本願寺で力を持っておられたこともあって、願証寺は伊勢、美濃、尾張の3国の寺院を統べる有力な寺院になりました。長島を含む当時の桑名郡は近江、伊勢、美濃の有力豪族の勢力争いの地でもあり、その中で願証寺に拠る門徒勢力は大きな力を持っていました。
 また当時から伊勢から尾張に向かう街道は、桑名からは舟に乗ることになり、長島はその要衝の地でもありました。

 織田信長との関係で見ますと、永禄10年(1567年)美濃の斎藤龍興が信長に追われて長島に逃れるなど、長島の地は反信長勢力の拠点という性格も持つようになりました。木曽川などの流れの中にある地の利(当時の伊勢湾は現在よりも深く入り込んでいて、七島はその中に浮かぶ島だったようです)を生かした難攻の地ですが、信長にとっては戦略上も重要であり、なんとしても手中に納めたい地でもあったということです。

 前回見ましたように、このような情勢の中、第11代顕如宗主のもとに信長勢との間で戦われた大坂戦争(石山戦争:1570~1580年)に呼応する形で、長島で一揆勢が蜂起しました。
 一揆は三度の大きな合戦の末一揆方の敗北に終わり、その拠点であった願証寺も破却されました。

 その後、天正12年(1584年)頃、織田信雄(のぶかつ:織田信長の次男で、当時この地域を支配していました)の許しを受けて、願証寺は尾張国清州に再興されました。さらに慶長年間(1596~1615年)には伊勢国桑名に願証寺が再建され、その後、長島又木の地に旧願証寺の門徒のために祐泉寺(後に誓来寺)が建てられました。その後桑名の願証寺は、真宗高田派に転派するということがありましたが、長島の誓来寺は本願寺派寺院として存続し、明治になって願証寺と改称します。これが、10月にお参りする願証寺ということになります。

 前回もご紹介しましたように、願証寺には「長島一向一揆殉教之碑」が建立されています。多くの犠牲者を出して戦われた長島一向一揆を偲んでお参りしたいと思います。

(図左はネットで見つけた長島の古地図を再現したもの、右は現在の長島周辺です)

 古地図では、伊勢湾が入り込んでいたことが分かります。点線で囲まれている七つの島が七島(長島)に当たるものだと思われます。地図上で「願證寺」と表示されているのは、一揆の拠点となった願証寺です。
 この記事を書くに当たって、桑名市の教育委員会に電話でお話しをお聞きしたのですが、この願証寺のあった土地は、その後明治時代の河川改修工事で長良川の流路に水没したのだそうです。
 旅行でお参りする予定の願証寺は、左の地図では「長島城」のある島、右の地図では「なばなの里」(旅行で訪れる予定になっています)のすこし東北にあります。

 古くからの治水工事で、木曽川、長良川、揖斐川の3つの川の流れが大きく変わったことも見ることができます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR