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565.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (38):下巻第三段(2)

     20190823下巻第三段西本願寺本

 御絵伝の下巻第三段の後半部分です。

 聖人板敷山(いたじきやま)といふ深山(しんざん)をつねに往反(おうへん)したまひけるに、かの山にして度々(どど)あひまつといへども、さらにその節をとげず。つらつらことの参差(しんさ)を案ずるに、すこぶる奇特(きどく)のおもひあり。よつて聖人に謁(えっ)せんとおもふこころつきて、禅室にゆきて尋(たず)ねまうすに、上人左右(さう)なく出であひたまひけり。すなはち尊顔にむかひたてまつるに、害心(がいしん)たちまちに消滅して、あまつさへ後悔の涙禁じがたし。ややしばらくありて、ありのままに日ごろの宿鬱(しゅくうつ)を述(じゅつ)すといへども、聖人またおどろける色なし。たちどころに弓箭(きゅうせん)をきり、刀杖(とうじょう)をすて、頭巾(ときん)をとり、柿の衣をあらためて、仏教に帰しつつ、つひに素懐(そかい)をとげき。不思議なりしことなり。すなはち明法房(みょうほうぼう)これなり。上人(親鸞)これをつけたまひき。

 (そのころ聖人は、いつも板敷山という深山を通って往きかえりしておられたので、その山の中で何度も待ち伏せをしたのですしたが、どうしてもうまく行きませんでした。そこでつくづくと、どうしてこのように行き違いになるのかを考えてみたところ、どうも聖人という人はただ人ではないように思われましたので、会ってみようと、お住居を訪問しました。すると聖人は何のためらうこともなく出て来られて、会うことができました。そしてそのお顔を拝しますと、あの危害を加えようとした心が忽ちに消えて、それどころか後悔の涙がとめどなく流れました。
 ややしばらくしてから、これまでのつもりつもったことをありのままにひとおもいに申し述べましたところ、聖人はすこしも驚いた様子がありません。この山伏はその場で持っていた弓矢を折り、刀や杖を投げ捨て、修験者の象徴とされていた頭巾をはずし、柿渋で染めた着衣をぬいで、本当の仏教に帰依しました。かれは最後には浄土往生の素懐をとげたのですが、これが明法房で、この名は聖人がつけられたのでした。)


 御文には、親鸞聖人は板敷山を通って往復されていたと記されています。
 平松氏によりますと、この板敷山は聖人がお住まいになっておられた稲田から南方8キロのところにあり、霞ヶ浦の湖岸に広がる平野部に出ていく通路だったということです。
 私はこの地域の地理については全く知識がないのですが、この地は現在の石岡市周辺に当たり、当時は常陸国の国府が置かれていて、政治経済の中心地だったということです。聖人は板敷山を通ってその国府に足を運ばれて、念仏のみ教えを弘めておられました。前回にも記しましたように、聖人のみ教えは多くの人びとに受け入れられ、聖人をお慕いする人びとの輪は広がっていきます。

 そのことを快く思わず、聖人を恨んだ修験者の一人について記されたのがこの下巻第三段です。
 その修験者は聖人に危害を加えようと板敷山で何度も待ち伏せするのですが、うまく行きませんでした。なぜうまく行かないのだろうと、いぶかり、直接聖人の庵を訪ねます。聖人に危害を加えようとやってきたのですが、聖人はためらうこともなくお会いになります。修験者はその聖人のお顔を拝したとたん、聖人を害さんとした心が忽ち消え、後悔の涙がどめどなく流れました。そして聖人に帰依することになり、明法房という名前を受けて聖人の高弟となられます。

 明法房は親鸞聖人よりも11歳年下でしたが、聖人に先立つこと12年、建長3年(1251年)に往生されます。都に戻っておられた聖人がそのご往生の報を聞かれて、常陸国の門弟に宛てて送られたお手紙に次のように記されています。
 「明法房が浄土に往生なさったということは、驚くようなことではありませんが、本当にうれしく思っています。」(『親鸞聖人御消息』第2通)
 また、同第4通には、
 「何よりも明法房が往生の本意を遂げられたことは、常陸の国の往生を願っておられる人々にとって、よろこばしいことです。」、「明法房などが浄土に往生しておられるのも、かつてはとんでもない誤った考えを持っていたその心をあらためたからに他なりません。」と記されます。
 聖人は、明法房のご往生の知らせをお聞きになって、稲田での明法房との出遭いを深い感慨をもって思い出しておられたことと思います。

 明法房は「弁円(べんねん)」と呼ばれていたとも伝えられていて、この下巻第三段は「山伏済度の段」あるいは「弁円済度の段」とも呼ばれています。しかし、平松氏によれば、弁円という名前が記録に表れるのは江戸時代以降からだそうで、実際に弁円という名前だったのかどうか確かではないのだそうです。

 (以前ご門徒さんのお宅で拝見した「べんねん」と記された軸では、弁円は庵の縁にではなく地面に山伏の姿のまま跪いていました。)

(お詫びと訂正です)

 前回の図で、親鸞聖人は先端が二つに分かれた鹿杖(かせづえ)を手にしておられる、と書きましたが、自坊の絵をよく見ますと先端は二つに分かれていないようです。平松氏は赤野井別院の御絵伝について説明をされていたものですが、このように図柄が違っているものもあるようです。

 (こちらが、赤野井別院の御絵伝です。赤野井別院は滋賀県守山市にある別院です。)
  20190823下巻第三段赤野井別院

(図は、西本願寺本伝絵の下巻第三段です)

 御絵伝では1枚の絵に4つの場面が描かれていましたが、伝絵では山伏が2名描かれている図と、この図の2枚に分けて描かれています。
 この図では少し見えにくいのですが、絵のほぼ中央に親鸞聖人が庵の入り口のところで2人の人物に会われているところ、左には山伏に対面されている場面が描かれています。

 前回の自坊の御絵伝と比較してみますと、今回の山伏は右の庵の入り口では長髪で着物を着ていますが、左の聖人と向かい合っている場面ではその着物は脱いで縁に置かれ、既に剃髪し墨染の衣に着替えた姿に描かれています。
 他の図を見てみましても、いわゆる伝絵(絵巻物)ではこの剃髪、黑衣姿で描かれているようでが、絵伝になるとまだ剃髪せずに柿色の衣姿になっているようです。
 時代が下って絵伝が作成された頃にはこのように絵柄が変更されたようですが、なぜこのような違いができたのでしょうか?柿色の衣装の方が聖人が山伏に対しておられるという緊迫感があることからこのように変更されたのかもしれません。
 
(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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