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564.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (37):下巻第三段

201908119下巻第三段自坊

 「御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯」は、下巻第三段に入ります。4幅の御絵伝では3幅目の一番上の図に当たる部分です。

 『御伝鈔』下巻第三段の最初の御文と現代語訳です。

  聖人(親鸞)常陸国にして専修念仏の義をひろめたまふに、おほよそ疑謗(ぎほう)の輩(ともがら)は少なく、信順の族(やから)はおほし。しかるに一人の僧[山臥(やまぶし)と云々(うんぬん)]ありて、ややもすれば仏法に怨(あだ)をなしつつ、結句(けっく)害心(がいしん)をさしはさみて、聖人をよりよりうかがひたてまつる。

(親鸞聖人は、常陸国で専修念仏の教えを弘められましたが、大部分のところではそれを疑ったりそしったりする連中は少なく、信じしたがう人びとがほとんどでした。
 ところが修験道の行者だと称する一人の僧が、そんな念仏による仏法の弘まりに恨みを抱き、敵愾心を燃やして、聖人に危害を加えようと、その機会をねらうようになりました。)


 親鸞聖人の稲田でのご様子を伺うことができるのは、前回の第二段と今回の第三段の二つの段です。
 今回の第三段では、聖人が常陸の国で説かれた念仏の教えに対して、多くの人びとはそのみ教えを喜び、信じ従い、それを疑ったりそしったりするものは少なかったと記されます。しかし、それでも念仏の教えがひろまることに対して、恨みを持ち、さらには聖人を害しようとその機会を狙ったものもいたのだと記されています。

 それが今回の段に登場する修験道の行者と自称する僧です。
 平松氏によれば、親鸞聖人が常陸国におられたころには、庵を結んでおられた稲田の近くの筑波山地は修験道の行者、いわゆる山伏(山臥)が修行を行う行場となっていたのだそうです。修験者は山中で修行を積み、特殊な力を身につけたとして加治祈祷の呪法(じゅほう)を行っていたようです。
 平松氏は、その一方で、この地域は信濃の善光寺とつながりが強く、すでに善光寺信仰も広まっていたとされます。従って、山伏たちの呪法と善光寺の念仏信仰とが対立する状況にあったということになります。
 
 そのような中、親鸞聖人が説かれる専修念仏の教えは多くの人びとを引きつけ、急速に広がりを見せました。
 修験の山伏にとっては、聖人のみ教えがひろまることは自身の存在を否定するものとして受け止められ、聖人に対する反発、怨念が増高し、中には聖人に危害を加えようと企むものも出てきました。
 下巻第三段はそのような背景の中で生じた出来事です。

(図は、自坊の御絵伝の下巻第三段です)

 この図は以前にも出てきました「異時同図画法」という、異なった場面を1枚の図に描く手法で描かれています。右の山伏と思われる2人、その左ではそのうちの1人が走っているところ、次いで聖人の庵の入口、それから屋内を描いた4つの場面です。

 この4つの場面すべてに登場しているのが、一人の修験道の行者です。彼は、三番目と四番目の部分では鎧は脱ぎ捨てて茶色に白い斑点模様の衣装に変わり、四番目の絵では手に何かを持っている所が描かれています。この手に持っているものは、修験者の象徴である頭巾だという説明と、切り取った自身の髪の毛だという説明がありました。どちらなのかよく分からないところです。

 親鸞聖人は、この絵の中では三番目と四番目の部分にお姿が描かれています。三番目の聖人は先端が二つに分かれた杖をついておられますが、平松氏によれば、これは鹿杖(かせづえ)と呼ばれる杖で中世の念仏聖に通有の持ち物だったということです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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