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562.ご紹介します(22):「空と湖水」

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 今日は、植松三十里さんという方が書かれた「空と湖水」という書籍をご紹介します。7月5日に発行されたところです。

 この本は、三橋節子さんという日本画家の生涯を描いた本です。実は同じ節子さんについて昭和52年に発行された「湖の伝説」という本がありました。もう40年以上前に梅原猛氏が書かれた本なのですが、私はこの本を読んで受けた驚きと感銘について今も記憶しています。
 今回節子さんについて描かれた本だということで、植松さんの本を興味をもって読み、また梅原氏の本ももう一度図書館から借りてきて読みなおしました。以前梅原氏の本も手元にあったのですが、こちらに帰る引っ越しの際に置いてきたようで、図書館から借用ということになりました。

 三橋節子さんは昭和14年3月京都に生れました。京都市立美術大学日本画科専攻科を修了、日本画家としての歩みを始められ、その後多くの賞を受賞するなど順調に日本画家としての地歩を固めておられました。
 ところが昭和48年34歳の時に、以前から感じていた右肩の痛みについて診察を受けたことろ、痛みの原因は鎖骨腫瘍で手術により右腕を切断することが必要だということが分かります。同年3月、節子さんは画家にとって命ともいえる利き腕の右腕の切断手術を受けられます。手術の後、節子さんは残された左腕のリハビリに取り組まれるのですが、専門家も驚くほどのスピードで左手の能力を獲得され左手による制作を始められました。
 その後も手術以前にもまして制作に取り組まれ、多くの作品が高い評価を受けました。しかし、48年12月がんが左肺に転移していることが分かり、肺の手術を受けられますが、がんは肺全体に広がった状態で手術による回復は絶望的であることが判明、その結果は節子さんの両親やご主人に告げられます。
 翌昭和49年1月に節子さんは退院、その後も体調のよくない中、残された時間を惜しむように精力的に制作に取り組まれていました。しかし、病気は確実に進行、翌年昭和50年2月節子さんは転移性肺腫瘍で亡くなられました。35歳の若さでした。

 節子さんが描かれた絵を集めた「三橋節子画集」という本があります。昭和55年3月に梅原氏が責任編集者として出版されたものです。その中に、ご主人の鈴木靖将氏がまとめられた「図版目録」があり、節子さんの画業を一覧できるようになっています。
 その目録を見ますと、節子さんが手術の半年後昭和48年9月に百号(縦162センチ、横130センチ)の大作を2点、そのうちの一つが「三井の晩鐘」なのですが、を完成させて毎年出品されていた「新制作日本画展」に出品されたことが分かります。その12月に再手術を受け翌年1月の退院の後、亡くなるまでの約1年間に描かれた作品として13点があげられています。2度の手術の間の体調も万全ではなかったものと思われます。そのような中で、ものすごい集中力で制作に取り組まれたことがよく分かります。

 2冊の本の表紙に取り上げられている絵を観賞したいと思います。

 最初の写真、左、植松三十里氏の本の表紙にとりあげられているは「三井の晩鐘」という昭和48年9月の作品です。
 節子さんの作品には近江の伝説に取材したものが多いのですが、この「三井の晩鐘」も民話をもとにした作品です。
 「昔、近江の里に若い漁師がいたのですが、見知らぬ美しい娘と結ばれます。子供もできたのですが、あるとき妻は夫に、自身が琵琶湖の龍神の化身であってもう湖に帰らなければならない、と言って引き留める夫を振り切り湖に戻ります。残された夫は夜になると乳飲み子を抱え浜に出て妻を呼びます。すると妻が表れて子供に乳を与えては湖に帰っていくというようなことが繰り返された後に、妻は自分の右の目をくりぬいて、これを子どもになめさせてください、と告げます。子供はその目を口にすると泣きやんだのですが、右目がなめ尽くされ今度は妻は左の目を与えます。妻は、両方の目がなくなって私は方角が分からなくなりました、これから毎晩子供を抱いて三井寺の鐘をついてください。そうしたらその音であなた方の無事を確かめることができます、と言い、それから毎晩三井寺で晩鐘をつくことになった」という民話です。

 この絵には、手前に目をなめている子供、その後ろにもう一つの目を手にして龍をまとわりつかせている盲目の女性、左に大きな鐘が描かれています。
 節子さんは、同じ日本画家のご主人との間に、男の子(草麻生:くさまおう)と女の子(なずな)を授かっていました。この絵は節子さんが右腕を切断した6か月後、再発が分かる3か月前の9月に描かれました。医師から再発の可能性について告げられていた節子さんには、再発への恐れやその場合に子供たちを残していかなければならないことなどが胸一杯にあったと思われます。  
 そうして見ますと、この龍女は節子さんの自身の姿であって、大切な子供に何か残しておいてやりたい、という痛切な思いが描かれていると思われます。
 手術後に驚くべき回復力で能力を獲得して描かれたたくさんの絵も、節子さんが子供たちを始めたくさんの人びとに残したいと願い描かれたものだといえます。

 右、梅原猛氏の本の表紙は、「花折峠(はなおれとうげ)」と題された絵で、昭和49年9月の作品です。花折峠という美しい響きのこの峠は京都から若狭に行く街道の途中に実際にあります。かつて訪ねたことがありますが、山間を縫う峠で、この峠についても次のような民話が伝えられています。
 「昔、やさしくて誰にも好かれる娘と、反対に何かにつけて評判のよくない娘の姉妹がいました。二人は一緒に花を頭に載せて遠くの里に売りに出かけるのが常でした。そんな二人でしたから優しい娘の売り上げがいつもよくて、もう一人の娘はそのことを恨んでいました。そんなある日、大雨になりました。こころ優しい娘は持ってきた雨具を二人で使いながら帰っていましたが、急流にかかっていた丸木橋のところで、評判のよくない娘は優しい娘を橋から急流に突き落とします。優しい娘は急流に飲み込まれて流されていきました。突き落とした娘は急いで里に帰るのですが、すると優しい娘が何事もなかったのかのように鼻歌交じりで夕飯の準備をしています。驚いた娘が丸木橋のところに戻ってみると、その辺り一面に茎の折れた花が散らばっていました。その後この場所を花折峠と呼ぶようになった」という民話です。

 この絵の中央右上から左下に向けて川が流れています。その川に一人の娘が浮んでいて、その左上には花籠を頭上に持った娘が描かれています。そしてこの絵の右下部、半分以上を占める部分にたくさんの種類の花が白い色彩で描かれているのが印象に残ります。しかもその花の茎はほとんどと言っていいほど全てが途中で折られているのです。前記の民話を節子さんが絵にしたもので、川に浮かんでいるのが心優しい娘だと考えられます。
 節子さんがこの絵を描いたのは、肺のがんの治癒が絶望的だということが分かり、そのような中でも制作に集中していた時、亡くなる5か月前です。
 梅原猛氏はこの絵を「花好きの節子がかいた自らの涅槃図である」と記されています。「節子も花売娘と同じく、何一つ非難さるべき所のない女であったが、残酷な運命に襲われた。しかし彼女も、その運命を、決してうらんだりせず、釈迦の如く安らかに、今、死につこうとしている」
 節子さんは、その二人の子供さんに植物の名前をつけるほど植物を愛しておられたそうです。後に残される子どもたちや、ご主人、家族のことを思いながら、それでもたくさんの花に囲まれて死を受け入れているそのような姿が見えます。梅原氏の言葉で思い起されるのですが、たくさんの動物に囲まれたお釈迦さまの涅槃図が浮かんできます。

 私がこの節子さんの生涯を知って、驚き感銘を受けたのは二つの点です。
 その一つは、がんに侵され利き腕の右手を切断するという、普通の人間ならば絶望して全てを投げ出してしまうような状況に直面しながら、驚異的なスピードで残された左手の能力を獲得し、制作に没頭し、優れた多くの作品を作り出したことです。右腕切断の手術の後、そして肺の手術の後とさらに加速するようにたくさんの作品を残されました。
 死が間違いなく近くにある、という感覚を持った時に、私たちはこのような力を発揮できるのだろうか、ということを考えさせられます。近くにあるかどうかは別にして死が間違いなくあるのだと、私たちは口にはします。しかし本当に、これではいけないと思い、残された時を節子さんのように力の限り生きているのだろうか、といつも自身に問いかけなければならないと改めて思います。

 その二つ目は、節子さんがこのようないわば理不尽な厳しい状況のなかでも、周りの人に感謝の気持ちを持ち続け、決して自身の不幸を嘆くことがなかったということです。
 節子さんがこのように厳しい状況の中で制作に取り組むことができた背景には、ご主人や、ご自身のご両親、嫁ぎ先のご両親の支えや励ましがありました。そして二人の子供さんの存在も大きな力になりました。梅原氏は、節子さんを力づけたご主人の言葉を紹介されています、「右手は無くなっても、俺の手と合わせて三本あるじゃないか」と。
 このような多くの力に支えられ、残された時間を思い、子どもたちのことを思い、節子さんは制作に向かわれました。そして父の三橋時雄氏の文では、最期のとき、苦しい息づかいの中から「ありがとう、幸せやった」という言葉を残されたそうです。

(左は「空と湖水」の表紙、右は「湖の伝説」の表紙です)

 それぞれ「夭折の画家三橋節子」「画家・三橋節子の愛と死」という副題が付されています。


(以下は、2019年9月20日追加分です)

 梅原猛氏の「湖の伝説」の本は引っ越しの際に置いてきたようだ、と書いていたのですが、こちらに持って帰っていたことが分かりました。なぜそうしたのか記憶がないのですが、いつも使っている本棚とは別の本棚にあったのです。気に入った本でしたから、見つけることができて喜んでおります。
 それで、以前置いていた本(宇部市立図書館からお借りしたものでした)の図を今回「発見した」本の図に置き換えました。そして図書館の分は、こちらに移転です。といっても、図書館の蔵書であることを示すラベルがちょっと見えるだけの違いなのですが・・・・

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(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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