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556.歴史を訪ねる(18):長島一向一揆

20190722願証寺s  20190722願生寺2s 

 前回は、戦国時代に本願寺教団が中心となって戦われた一向一揆についてその概要を学びました。今回は、そのうち「長島一向一揆」と呼ばれている一揆について情報をまとめます。

 長島一向一揆は、元亀元年(1570年)から天正2年(1574年)の間、伊勢長島(現三重県桑名市)を中心とした地域で織田信長に対抗して戦われた一向一揆です。時期としては一連の一向一揆の中の最終局面に当たります。

 この長島(元々は七島だったそうです)の地は、木曽川、揖斐川、長良川のいわゆる木曽三川の河口付近の輪中(わじゅう:集落を水害から守るために周囲を囲んだ堤防、あるいはその堤防で囲まれた集落のことをいいます)地帯です。上記の川が枝分かれして陸地から隔絶された地形になっていたということです。

 文亀元年(1501年)(開基については諸説があるようですが)に本願寺第8代宗主蓮如上人の6男の蓮淳上人により願証寺が創建されました。それ以来、本願寺門徒は地元の国人領主層を取り込んで、この地域を支配するようになりました。
 永禄10年(1567年)織田信長は、美濃の稲葉山城(現在の岐阜城)を攻め落とし美濃国を平定しましたが、城主だった斎藤龍興は長島の地に逃げ込んだとされます。龍興を追った信長は伊勢に攻め入り北伊勢を服属させましたが、長島の地には力が及ばなかったようです。
 その結果、伊勢長島は信長に敵対する勢力の拠点という性格を持つことになりました。

 元亀元年(1570年)本願寺が信長に対して蜂起した石山戦争に当たって、信長に対して立ち上がるようにとの檄文が全国に発せられます。これに呼応して本願寺門徒や北伊勢の豪族が信長に対して起した戦が長島一向一揆です。

 この頃信長は、近江国(現滋賀県)で朝倉氏、浅井氏と対峙しておりこの長島の蜂起に対抗する勢力を送ることができませんでした。しかし、朝倉・浅井連合軍と和睦を結びこの方面の憂いをなくした信長は、元亀2年(1571年)再度伊勢に侵攻します。  
 この第一次合戦は一揆軍の勝利に終わり、信長の長島攻略は失敗に終わります。ウイキペディアの情報によりますと、この戦で戦った兵は一揆方が10万人、信長方が5万人という多数になっていました。

 次いで天正元年(1573年)、朝倉義景、浅井長政を滅ぼした信長は再び長島攻略を目指します。この第二次合戦で信長軍は一揆方の城を陥落させ北伊勢を平定しますが、用船の調達が難渋したことなどにより、水に囲まれた長島への直接攻撃はできずに終わりました。
 この第二次合戦で戦った将兵の数は、一説には一揆方が2万人、信長方が8万人とされています。

 天正2年(1574年)信長は三度目の長島攻撃に着手します。信長は、長島の特徴を考慮し水軍を強化し、自身の主要な軍勢を総動員する形で、長島攻略を進めます。総数で12万ともいわれる信長軍の攻撃により一揆勢は守城を落とされ、苛烈な攻撃を受けて多くの命(3万人とも言われます)が失われました。
 このように長島の地を失った一揆勢は完全に崩壊し、輪中の自治組織、自治領も消失することとなりました。

 前回記しましたように、一向一揆は第8代宗主蓮如上人の世におこりました。その後実如上人、証如上人の時代を経て第11代宗主顕如上人の時代にこの長島一揆の敗戦と石山戦争をもってその終焉を迎えます。
 本願寺の4代の宗主と一揆が立ち向かった時の権力者との相克は、その時代に応じて複雑な背景があったようです。もう少し情報を整理したいと考えています。

(写真は、現在の長島の願証寺と境内の「長島一向一揆殉教之碑」です。)

 写真は以前はウイキペディアのものを借用しておりましたが、先日桑名市在住の友人にお願いして写真を撮っていただきましたので差し替えました。右の写真に「長島一向一揆殉教之碑」が写っています。
 1975年には願証寺で一向一揆400年追悼法要が勤修されたとお聞きしています。10月の団体参拝の3日目に訪問する計画になっています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 
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