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554.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (34):下巻第二段


20190712下巻第二段自坊

 御絵伝の下巻第二段に入ります。4幅の御絵伝では3幅目の下らか5番目の絵です。
 以下、『御伝鈔』の御文と訳文を掲げます。下巻第二段の最初の部分に当たります。

 聖人(親鸞)越後国より常陸国に越えて、笠間郡稲田郷といふところに隠居したまふ。

 (親鸞聖人は、越後国(新潟県)から関東の常陸国(茨城県)へ移って、笠間郡稲田郷(いまの笠間市稲田町)というところに隠居せられました。)


 前回の下巻第一段の最後の部分に、聖人は勅によって罪を解かれたけれどしばらくの間越後にとどまっておられた、と記されていました。今回、その後聖人は関東に移られたと記されます。『御伝鈔』には記されていませんが、建保2年(1214年)に、聖人は奥様の恵信尼公や子供さんを伴われて関東へ移られたと考えられています。聖人42歳の時でした。

 聖人がなぜ越後から関東に移られたのだろうか、という点で様々な議論があったとお聞きしています。
 前回、京都に戻られなかったことについてその背景をみましたが、なぜ同じ越後で念仏の教えを弘めるのではなく関東に移られたのだろうか、越後もすでに念仏の教えがひろまっていたのになぜ越後を離れられたのだろうか、という点です。
 覚如上人は『御伝鈔』でその背景となることについては、全く触れられていません。

 平松令三氏の『聖典セミナー 親鸞聖人絵伝』やその他の資料によりますと、その背景として次のような説が出されたそうです。
 恵信尼公の実家である三善家の所領が関東にもあってその縁を頼って移られたとする説、聖人のご著書である『教行信証』を著すに当たって「一切経」を参照するに必要があり常陸国が至便の地であったとする説、さらには、聖人は越後の農民と共に常陸の国に移住されたとする説などです。
 また、平松氏によりますと、近年、親鸞聖人は善光寺の勧請聖(かんじんひじり:念仏を弘めつつ募財を行う僧)たちと共に関東に赴かれたという説も有力になっているということです。

 善光寺は長野市にあるいずれの宗派にも属さない単立の寺院で、創建は7世紀中頃だとされています。ちょうど越後から常陸に至る中間の地に位置していて、聖人が常陸に移られる途中で善光寺によられたとする説、百日間滞在されたとする説もあるということです。
 平松氏によりますと、善光寺の本堂にには大きな花瓶に松の木が1本生けられていて、その松は「親鸞松」と呼ばれているそうです。善光寺では、親鸞聖人が参詣されたときに献上されたことを受け継いでいこの様式にされているということです。
 さらに真宗高田派の専修寺(現在、本山は三重県津市にありますが、かつては現在の栃木県間岡市に創建されました)では、仏前にお供えする花は「高田の一本松」と呼ばれる松の木一本だけなのだそうです。善光寺の松と同じ形であり、このことも親鸞聖人と善光寺とのつながりを示すものではないかとされています。

 10月の団体参拝では専修寺にお参りする計画になっていますので、この「一本松」を見ることも楽しみにしたいと思います。
 
(図は、自坊の御絵伝下巻第二段です)

 画面には2つの場面が描かれています。
 右の図には、水辺を歩く3人の僧が描かれています。中央の白い帽子(もうす)を首に巻いておられる方が親鸞聖人です。
 この図については、越後での布教中のお姿とするものと、越後から関東に向かわれるお姿とするものとがあるようです。前者ですと水は海を描いたものということになり、後者ですと「室の八嶋」という景勝地や「霞ヶ浦」だとされているようです。

 画面中央の小さな橋を渡り、岩場(一節には筑波山と)を越えたところに稲田の草庵の様子が描かれています。ここでも聖人は白い帽子を着けておられます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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