FC2ブログ

551.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (33):下巻第一段(5)

20190705下巻第一段専修寺本20190705下巻第一段専修寺本1

 御絵伝の下巻第一段の5回目、最後の部分となります。『御伝鈔』の御文と訳文です。

 皇帝[諱守成、佐渡院と号す]聖代、建暦辛未歳、子月中旬第七日、岡崎中納言範光卿をもつて勅免。このとき聖人右のごとく禿の字を書きて奏聞したまふに、陛下叡感をくだし、侍臣おほきに褒美す。勅免ありといへども、かしこに化を施さんがために、なほしばらく在国したまひけり。

 そののち順徳天皇(諱は守成、号は佐渡院)の建暦元年(1211年)11月17日に、岡崎中納言範光よりご赦免の勅令が下りました。このとき聖人が右のように禿の字を姓として天皇に奏上されたところ、天皇は感嘆せられ、お側につかえる臣下たちもたいへんほめたたえた、といいます。そして赦免ののちも、その地の人びとを教化するために、なおしばらくの間そのまま越後にとどまっておられました。

 承元元年(1207年)朝廷の弾圧により、法然聖人のお弟子さんたちは死罪や流罪に処せられました。その後、建暦元年(1211年)朝廷は赦免の勅令を発し、法然上人は都に戻られます。当時も後鳥羽上皇が権勢を振るっていた時代ですので、この勅免も上皇の了解のもとに行われたものと考えられます。
 法然上人は都に戻られたのですが、その2か月後に80歳でお亡くなりになります。

 親鸞聖人も同時に赦免を受けられたのですが、今回の『御伝鈔』に記されていますように、越後に残られ都にはお帰りになられなかったようです。その理由として、平松令三氏は次のような点を挙げておられます。

 第一に法然上人がお亡くなりになったことです。親鸞聖人は法然聖人を敬い、慕っておられました。もう一度お会いしたいという思いを強く持っておられたことと思われますが、その師の示寂を知られて、親鸞聖人の中で京都に戻る意味が薄れていったのではないかとされています。
 また、法然聖人が在京の頃「自分の歿後に門弟たちが一か所の集まることがないように」とされていたことも親鸞聖人の判断の背景にあるのではないかとされています。門弟が集まると、どうしても内部に争いが生じること、また集団心理から過激な行動に走るものがあらわれそれが弾圧の原因となること、などを危惧されたものだとされています。
 さらには、1211年の3月に、親鸞聖人と恵信尼公の間に息男の信蓮房が誕生されています。乳飲み子を抱えて長旅をすることを避けるということもあって、直ちに行動を起こされなかったのではないかとされています。

 そのような背景もあって越後にとどまられた親鸞聖人ですが、聖人の越後時代の生活の様子を伝える資料はほとんど伝わっていないようです。お弟子さんの記録で越後時代のものとされるのは一人だけだということで、越後での教化の活動の様子もよく分からないのだそうです。

(図は、専修寺本の伝絵に描かれた越後の庵室です。)

 「越後国府の御下著の御庵室也」と記されています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR