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549.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (32):下巻第一段(4)

20190628下巻第一段西本願寺本  20190628下巻第一段西本願寺本2

 引き続き、『御伝鈔』の御文と訳文を記します。

 空聖人罪名藤井元彦、配所土佐国 [幡多] 鸞聖人(親鸞)罪名藤井善信、配所越後国 [国府] このほか門徒、死罪流罪みなこれを略す。

 法然聖人の罪人としての名は藤井元彦(ふじいのもとひこ)、流された先は土佐国の幡多(はた)というところ。親鸞聖人の罪人としての名は藤井善信(ふじいのよしざね)、流された先は越後国の国府(こくぶ)。このほか門徒で死罪、流罪になった者は多いけれど省略します。


 このように、法然聖人と親鸞聖人は僧侶の身分を奪われ還俗させられて、藤井元彦、藤井善信と名乗らされることになり、法然聖人は土佐の幡多(実際に行かれたのは讃岐国・香川県までだったと伝えられています)に、親鸞聖人は越後の国府の地に流されることとなりました。

 親鸞聖人が流された先「国府」は現在の新潟県上越市に当たるようですが、詳細な場所についてははっきりしていないのだそうです。
 また、聖人がどのような形で越後に赴かれたのかという点についてもいろいろな見方があるようです。聖人が恵信尼公と結婚されたのがいつなのか、越後に向かわれた時には結婚しておられたのか、という点に関することです。

 かつては、聖人は流罪先の越後で恵信尼公と結婚されたとする説が有力だったそうです。

 その根拠は、恵信尼公の父が越後に所領を持っていた三善為教公であったことや、恵信尼公が晩年に京都から越後に移り住まわれ多数の下人を持っておられたことから、恵信尼公は越後育ちとで聖人とご一緒になられたのも越後だったとするものです。しかし、父の三善為教公は京都に生活の根拠を持ちながら越後介として越後に所領を持っていたと見られること、恵信尼公ご誕生の4年前に越後介の任を解かれていたこともあって、恵信尼公は京都で生まれ育てられたとされる見解も出されています。
 また、越後で結婚されたとする説の背景には、流刑人が家族を帯同することなどあり得ない、ということもあったようです。しかし、平松令三氏によれば、当時の法令では「流人は妻妾を棄放して配所に行ってはならない」とされていて、逆に家族を伴わなければならなかった、ということのようです。従って、恵信尼公と京都で結婚されたのであれば、当然にご一緒に配所に向かわれたということになります。
 さらに、越後配流の4年後の承元5年(1211年)に親鸞聖人と恵信尼公との間に信蓮房が誕生します。聖人と恵信尼公の間には、すでに信蓮房の姉に当たる小黒女房と兄に当たる善鸞がありましたので、このことも聖人が京都で結婚されていたという根拠になっているようです。

 このように、親鸞聖人が越後に配流となられたのは恵信尼公と結婚された後だった、という見解が現在では有力になっているようです。

 かくて親鸞聖人は師である法然聖人と別れられて、配所の越後に向かわれました。この時、法然聖人は75歳、その後、許されて京都に戻られますが1212年、80歳でご往生されます。従って親鸞聖人にとっては、この承元元年(1207年)が法然聖人との最後のお別れとなりました。

(図は、越後に向かわれる聖人のお姿を描いた西本願寺本の伝絵です)
 左は「流罪の聖人を送り届ける武士たち」、右は「聖人を載せた輿が越後に向かうところ」とされています。
 当初の伝絵には法然聖人と親鸞聖人が出立される場面は描かれておらず、その後四幅の御絵伝が制作されるようになって、出立の場面が差し替えられて入れられるようになったということです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

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