FC2ブログ

546.歴史を訪ねる(16):大内氏歴史文化研究会(2)「大内義隆の遷都計画」

20190617大内文化s  20190617大内文化2s

 少し前になりますが、5月26日に「山口県教育会館」で開催された大内氏歴史文化研究会の第13回講演会を聞きました。初めて参加した第12回に続けての2回目でした。
 当日の演題は[大内義隆の遷都計画-もうひとつの戦国時代-]というもので、講師は、米国プリンストン大学教授で日本の中世史を専門に研究しておられるトーマス・D・コンラン氏でした。

 コンラン氏が講演で話されたのは、大内義隆が陶隆房(後の陶晴賢)に討たれた「大寧寺の変」の引き金となったのが、義隆が企てていた「山口への遷都計画」だったということでした。大内義隆が山口遷都を計画していたということは今回初めて知りましたし、信田の丸城に拠っていた万倉杉氏もこの変に深く関わっていたこともあり、講演を興味深く聞きました。

 従来、隆房が主の義隆に対して反乱を起こしたのは、義隆が戦をきらい文治に傾いたことに対して隆房が反発したことが原因だとされています。義隆が厭戦に転じた直接の原因となったのは、義隆が自ら出兵し出雲の尼子晴久を攻めた戦で大敗を喫し、後継としていた養子の大内晴持を失ったことによるとされています。その敗戦の後、義隆は領土拡大や戦闘に関心を失い、武断派の陶隆房や内藤興盛などを遠ざけて、文治派の相良武任(さがらたけとう)などを重用するようになります。
 このような義隆に対して、隆房は軍備を強化するように進言するのですが、義隆は取り合わなかったとされています。さらに、その政治も武任に任せ、自身は学芸や茶会などに没頭し公家のような生活を送るようになったようです。また、冠位を得ようと朝廷に多額の寄進を行うなどもあって、膨大な経費を要することになり、年貢の増徴も行われるなど、いよいよ反発を強める結果となりました。

 10年以上続いた応仁の乱の後、山口は乱により荒廃した京都に比べてはるかに安定し栄えた都市で、多くの文化人が大内氏の庇護を求めて都から逃れて来ていたと言われています。強大な守護大名として、大内氏はその経済力で朝廷を支える存在でもあったようです。そのような環境と、義隆の厭戦気分、文化嗜好が相まって義隆の「公家化」が進展して行ったとされています。
 そのような義隆の姿勢を背景にして、武断派と文治派の対立はいよいよ先鋭化していきますが、その中で、武任が危険を感じ山口を出奔したり、また戻って実権を取り戻したりと目まぐるしく情勢は変化していきます。

 コンラン氏は、その義隆が山口に天皇を迎えて都を移そうという計画を持っていたのだとされます。当日の資料の中の『中国治乱記』という文書に次のような記述があると紹介されていました。
 「そのころ京都は乱れて帝位も穏やかでないので、周防山口に皇居を建立し、天子もここに移されてはどうだろうかと、大内殿から建議があったので二條殿や転法輪三條殿、持明院中納言殿、その他公家衆は皆山口に下向した。」
 (古川薫氏が『大内氏の興亡』という書を著されているのですが、そこでも『中国治乱記』のこの部分の引用がありました。ただ、氏の著書の中では「転法輪三條殿、持明院中納言殿」という名前は見えず、「二条殿をはじめ公家衆は多く山口へ下向した」とされ、ニュアンスが少し違っているように思われます)
 いずれにしても、京都から多くの公家衆が山口に下ったことは間違いのないことのようです。

 そうすると、公家衆は義隆の庇護のもと権威を誇り、武骨な武断派を軽侮するというようなこともあったようです。このような事態は、それでなくとも義隆の公家化に不満を募らせていた武断派の怒りをさらに強めていったということは容易に想像できることです。
 さらに、コンラン氏は、天文21年(1552年)の朝廷の元日の節会(せちえ)を山口で行うという計画が進められていたとされています。節会に向けて多くの公家衆が山口に集まっており、重要な朝廷行事である節会の費用、多くの公家衆の滞在費など、また膨大な費用が必要になります。そのことが隆房に謀反を決意させた要因だとされています。

 関連する事項を時系列に従ってまとめますと、次のようになります。

1467~1478年 応仁の乱
1507年(永正4年)大内義隆誕生
1526年(大永6年)後奈良天皇即位
1528年(享禄元年)義隆、父大内義興死亡により第16代当主となる
1534年(天文3年)義隆、後奈良天皇即位礼にあわせて銭2千貫朝廷に寄進。太宰大弐の位を所望するもならず
1535年(天文4年)後奈良天皇即位式
1536年(天文5年)義隆、太宰大弐に叙任される。北九州を平定
1541年(天文10年)隆房を総大将に安芸を平定
1542年(天文11年)隆房の策により出雲に出兵するも大敗、1943年養子晴持は溺死。文治派、相良武任台頭する
1547年(天文16年)最後の勘合貿易。以後貿易による利益はなくなる
1548年(天文17年)義隆、従二位に叙せられる。
              この頃杉重矩は、不穏な動きをする隆房について義隆に進言するも聞き入れられず
1550年(天文19年)義隆、フランシスコ・サビエルに引見。義隆は立腹し、サビエルは畿内に去る
           陶、内藤の謀反の情報があり、義隆、これを詰問するも放置
1551年(天文20年)サビエルに再び引見、布教を許可
           隆房謀反、内藤興盛も義隆を支援せず
           義隆、湯本「大寧寺」にて自刃。多数の公家も殺される
1552年(天文21年)隆房、大友晴英(後に大内義長に改名)を大内家当主に据える
1553年(天文22年)杉重矩、厚狭長光寺にて自刃
1555年(弘治元年)隆房(晴賢)、厳島の戦にて毛利元就に敗れる

 この乱の中で、京都から山口に来ていた多くの公家衆の命も容赦なく奪われたとされています。武断派の不満、恨みは文治派に向けられると同じく公家衆にも向けられていたことが分かります。

 万倉杉氏の第5代、重矩の名前が出てきましたが、重矩は同じ武断派ながら元々隆房と対立する関係にありました。しかし、隆房が義隆に対して兵をあげたときには、重矩はこれに加わり義隆を自刃に追い込みます。
 その後、武任が義隆に提出したとされる「相良武任申状」に、重矩が隆房の不穏な動きを義隆に知らせ、隆房を討つように進言したことが記されており、これを隆房が入手したことから、両者の対立は決定的なものになります。隆房は、蟄居していた重矩を攻め厚狭の地で自刃に追い込み、重矩を義隆殺害の首謀者としてその首級を晒しました。これを恨んだ重矩の子重輔の復讐など、以前に記したような、文字通り血で血を洗う壮絶な抗争が続きます。

 このように「大寧寺の変」の背景には様々な要因が混在しているようですが、直接の引き金になったのが何なのか、義隆の「山口遷都」計画もその中にあるのかもしれません。コンラン氏は、現在大内氏に関する著書を執筆中ということですので、その刊行を楽しみにしていましょう。

(写真は、講演の案内と公演中のコンラン氏です)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR