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539.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (30):下巻第一段(2)

20190524下巻第一段法然上人絵伝

 御絵伝の下巻第一段の2回目になります。引き続き『御伝鈔』の御文と訳文です。

 『顕化身土文類(けんけしんどもんるい)』の六にいはく、「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証(ぎょうしょう)ひさしく廃(すた)れ、浄土の真宗は証道(しょうどう)いま盛(さか)んなり。しかるに諸寺の釈門(しゃくもん)、教に昏(くら)くして真仮(しんけ)の門戸(もんこ)を知らず、洛都(らくと)の儒林(じゅりん)、行(ぎょう)に迷(まど)ひて邪正(じゃしょう)の道路を弁(わきま)ふることなし。ここをもつて、興福寺(こうぶくじ)の学徒、太上天皇[諱(いみな)尊成(たかひら)、後鳥羽院(ごとばのいん)と号す]今上(きんじょう)[諱為仁(ためひと)、土御門院(つちみかどのいん)と号す]聖暦(せいれき)、承元(じょうげん)丁卯(ひのとのう)の歳、仲春上旬の候に奏達(そうだつ)す。

 そのことを親鸞聖人は『教行信証』「化身土巻」に、
 「しずかに思いをめぐらしてみますと、聖道門の諸宗は、修行をしてさとりを開くということがもう長らくなくなってしまって、本願念仏によって浄土に往生し、さとりを得る道が、いま盛んにひろまっています。ところが旧仏教寺院の僧侶たちは、仏教にくらくて、本願を信じて真実浄土にいたる真実の教え(真)と、それ以外の方便の教え(仮)との区別を知らない状態ですし、京洛の儒学者仲間は行く道に迷って、正邪の方法を区別し、わきまえることができない有様です。
 そこで奈良興福寺の学僧たちは、太上天皇(諱は尊成、号は後鳥羽院)と今上天皇(諱は為仁、号は土御門院)に上奏文を提出して天皇のお耳に入れました。承元元年(1207年)二月上旬のことでした。


 覚如上人は前回の部分で、法然聖人の専修念仏の教えが急速に広まったことに対して、旧来の仏教から激しい反発が生じ、朝廷に対して法然聖人を直ちに処罰するよう訴えがあったことを記されました。
 今回以降の部分で、覚如上人は、親鸞聖人のご著書『教行信証』の御文をそのまま引用して、旧仏教側からの訴えを容れて朝廷が行った専修念仏に対する弾圧の不当性を主張されます。

 その旧仏教側が何を問題としてどのようなことを主張していたのか、それに対して法然聖人はじめ専修念仏の立場の人びとはどのように対応していたのか、ということについて学びたいと思います。

 法然聖人が、元久元年11月に比叡山延暦寺からの抗議に対して延暦寺側に示し、門弟に署名するように指示された「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)」の内容は次のようなことを行わないようにというものでした。これを読めば、旧仏教側が専修念仏のどのような行為を非難していたのかということが伺えます。
 ・天台、真言などの教説をむやみに非難すること
 ・無智の身で有智の人と議論をすること
 ・持戒するものを非難して捨戒させること
 ・専修念仏者は倫理を尊重する必要はないと説くこと
 ・聖教、師説を離れて勝手に私説を述べること
 ・芸能まがいの説法を行うこと
 ・邪法を説いて正法、師法ということ

 このようにして法然聖人は旧仏教側からの非難が大きくならないように丁重な対応をされ、門弟に対しても厳しく指示されたのですが、門弟の中にはそれに反発する者があり、それがせっかく沈静化しつつあった旧仏教側からの非難を再燃させることになりました。そのような中、元久2年(1205年)10月に奈良興福寺を中心とした旧仏教側は「興福寺奏状」を朝廷に提出します。奏状は専修念仏が犯した失として次のようなことを訴えるものでした。
 ・許しもなく新宗をたてた
 ・釈尊を軽んじている
 ・万善の行を妨げる
 ・浄土について誤っている
 ・破戒を容認している
 ・国土の安寧を乱す

 この訴えに対して朝廷は、法然聖人の門弟が破戒を悪としない行いは誤りだとしながらも、それは法然聖人の真意ではないとして、刑罰を加えるのは適当ではない、と宣旨を発したと伝えられています。
 当時摂政という政務の中枢にあった九条良経公(法然聖人に帰依していた九条兼実公の子息)は専修念仏の理解者であり、また実力者であった後鳥羽上皇の厚い信任を受けた人でもありました。そのようなことから、朝廷は旧仏教側からの強硬な訴えに対して専修念仏を弾圧するといった対応をとることは避けていたようです。
 しかし、その良経公は元久3年(1206年)3月に急死します。その後も興福寺から度々の要求もあって、朝廷で専修念仏の取扱について協議がなされたのですが、興福寺の意向に沿った結論は出されませんでした。その背景には、旧仏教側の要求には屈しないという後鳥羽上皇の意思があったのではないか、と赤松敏秀氏は述べています。

(図は、「法然上人行状絵図」の第三十一巻です)

 絵は、延暦寺からの非難を受けて法然聖人が門弟を集められたところが描かれています。この絵図の詞書には七箇条の内容とそれに署名した88名の僧の名前が記されています。
 この一つ前の第三十巻には、僧兵たちが弓矢、薙刀を手に集まり、今度こそは要求を通そうと気勢を上げている様子が描かれています。このように旧仏教側は武力も背景にして要求を突き付けていたことが分かります。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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