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537.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (29):下巻第一段

20190517下巻第一段自坊s

 今回から「御絵伝」は下巻に入ります。下巻の第一段は、4幅の「御絵伝」では、第3幅の下の4つの絵がそれに該当します。
 『御伝鈔』の書き出しの部分と訳文を記します。

 「浄土宗興行(こうぎょう)によりて、聖道門廃退(はいたい)す。これ空師(源空)の所為(しょい)なりとて、たちまちに罪科(ざいか)せらるべきよし、南北の碩才(せきさい)憤(いきどお)りまうしけり。」

 「浄土教の宗旨が盛んになったために、聖道門の教えがすたれてきました。そこで奈良や比叡山の学僧たちが、これは法然聖人のせいだと怒って、すみやかに処罰するべきだと訴えました。」


 「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるだけでお浄土に往生できる、今の世の中ではそれ以外に往生できる道はない、と説かれた法然聖人の教えはそれまでの仏教の教えとは全く違ったものでした。それまでの仏教では、厳しい修行を修めることで初めて煩悩を脱し、さとりを得ることができるとされていました。しかしそれは、末法の世に不安を抱える多くの人びとには救いを与えるものではあり得ませんでした。
 そのような中で、念仏一つで救われると説かれた法然聖人の教えは、多くの人びとに広く受け入れられるものでした。しかし、そのように多くの人びとに受け入れられ急速に広まったことは、一方では旧来の仏教界から猛烈な反発を受ける原因となるものでもありました。
 また、法然聖人の門弟の中にも他の宗旨はみな間違いだと声高に非難するものや、阿弥陀さまが救ってくださるのだから何をしても構わないと悪行を働くものもあって、それが在来の仏教界を刺激したという側面もあったようです。

 そのようなことが背景となって、在来仏教から法然聖人に対して非難、攻撃が発せられました。
 元久元年(1204年)には、比叡山延暦寺からの非難に対して、法然聖人は門弟の中には逸脱した者がいることを認めて、その門弟に対して厳しく指導する旨の誓約書を比叡山に送られるということがありました。併せて、門弟たちを集めて今後は誤解を招くような言動を慎むようにいましめた「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)」を示され、全員の署名を求められました。門弟190人がその署名をされたと伝えられていますが、親鸞聖人も「僧綽空(しゃくくう)」とその87番目に署名されています。
 親鸞聖人は32歳、法然聖人の門下に入られてから3年、『選択集』の書写の許可を受けられる前年のことでした。

 法然聖人はこのように問題を大きくしないように努力されたのですが、事態は容易に収まりませんでした。翌元久2年(1205年)に、今度は奈良の興福寺が先頭に立ち南都六宗と真言、天台を加えた八宗が朝廷に対して専修念仏の禁止を求め、その実施を執拗に迫りました。
 この在来仏教界からの訴えに対して、当初朝廷は中立的な立場をとり、法然聖人を糾弾するような動きを見せませんでした。それは、朝廷の重役の中にも九条兼実公のように法然聖人の教えに帰依する人や法然聖人に対する理解者もあり、朝廷を含めた三者の間に入って妥協点を求める動きがあったからだとされています。

(図は、自坊の「御絵伝」下巻第一段の4図のうちの2図です。)

 この4つの図は、「御絵伝」の中でも大きなスペースを占めています。このことは、この段、「師資遷謫(ししせんちゃく)」の段が親鸞聖人のご生涯でも特に重要な意味をもつことを示すものだと思います。

 下の図は、念仏が禁止された頃を描いたものとされています。
 中央下には念仏禁止を申し出る公卿が描かれ、左部分では検非違使(けびいし:当時の市中警護の警察官)の長が公卿から念仏禁止の指示を受けているところ、上右部分では検非違使に追われて逃げようとしている2人の人物が描かれています。そのうちの一人は僧侶のようです。

 上の図は、御所の中で6人の公卿が念仏停止の訴えについて評定(ひょうじょう)を行っている所です。描かれている御簾(みす)の中には天皇がおられるのですが、その姿は描かないというのが当時の約束事だったようです。
 画面左端に竹が描かれていますが、それはこの評定が御所の中央の仁寿殿(じんじゅでん)と呼ばれる建物で行われたことを示していると言われています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 
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