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498.歴史を訪ねる(14):壽福寺の歴史(4)

20181231初雪  20181231初雪2

 「壽福寺の歴史」は、壽福寺の開基に関する3つ目の情報です。
 これまでの情報は、その1番目は信田之丸城が落城した際に、城主の杉重輔の弟が出家して寺を開いたという説、2番目はその重輔の長男の杉重良が毛利氏に反旗を翻して敗北し出家したという説でした。

 今回の第3番目の説は、『防長寺社由来』という書に記されている内容です。その記事を見てみますと、
「厚狭郡万倉村融光山寿福寺由来書覚
 一、当寺儀は往古福寿院と申真言宗の古跡ニ(に)て杉重義祈願所の由申伝候、拙僧先祖岩﨑相模守と申大内家随身の者ニて御座候処ニ、山口落城の以後発心仕、京都本願寺十二代順如上人御寺務の節上京仕、法名浄願と申請、弥陀尊影壱幅頂戴仕、帰国の上右の古跡真宗寿福寺と相改、当寺初代ニ罷成候事
 但、開基浄願事永禄十年霜月五日死去仕、墓所当寺境内ニ御座候事
 一、二代浄意 三代浄祐 四代浄専 五代浄玄 六代正伝 七代天竜 拙僧迄八代ニ罷成候事
 (中略)
 右当寺由来如斯御座候、以上
 寛保元酉九月廿二日
  厚狭郡万倉村真宗寿福寺(印) 玄貞(花押)
 井上武兵衛殿」

 この書によりますと、寺の由来を提出した玄貞師(第8代)は、「先祖は岩崎相模守という大内家の随身だったが、大内氏の滅亡にともない出家し、本願寺第12世准如(順如は誤りと思われます)上人の時に上京し、浄願という法名その他を頂戴し、帰国後古跡福寿院を真宗寿福寺に改めた」と記しています。

 ここでは、岩崎相模守という名前が初めて登場しました。
 この書によれば、当初岩崎という姓だったのがいつの時か杉に改められたということになります。確かに壽福寺には岩﨑あるいは岩崎という姓のご門徒さんが多くおられます。寺の近くではほとんどのお宅が岩﨑さんで、かつては門名(屋号)で呼び合っておられたことを覚えています。
 大内氏の家臣に岩崎相模守を名乗った人物がいたのか調べてみたのですが、これまでのところそのような情報を得るには至っておりません。
 ということで、岩崎相模守も今後の調査項目とします。

 この書でも浄願師の逝去は永禄十年(1567年)とされていて、前回見ました准如上人のご門主就任(1593年)より前であることは変わらず、この疑問点も残っています。

 さらに、玄貞師が記した8代までの住職の名前も、寺の過去帳と相違している部分があります。これについても今後調べてみたいと思っています。

 今回は今年最後の記事となりますので、壽福寺の開基に関する3つ目の説について取り上げました。2つ取り上げて1つ残っているというのもなんとなく据わりが悪い(?)感じがありましたので記事にしたのですが、上にあげたような疑問点は来年に持ち越しとします。

(写真は12月29日の本格的な初雪の風景です)

 当日朝の外気温はマイナス2度、本格的な寒さでした。写真に轍が見えますが、当日新聞を配達いただいた方が残されたものです。この寒さの中、有り難いことです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください) 
 
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