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497.最近の話題(20):「半分、青い。」(2)

20181228半分、青い  20181228半分、青い2

 以前にNHKのテレビドラマの「半分、青い。」について記したことがありましたが、『本願寺新報』の12月20日号にこのドラマを取り上げたコラムがありました。 
 「ニュースを読む」という連載のコラムなのですが、東京の延立寺ご住職の松本智量さんという方が「日常という豊かさ」というタイトルで記事を書かれていました。
 松本氏はこのドラマで印象に残ったことを2つあげておられました。

 その一つは、ヒロインの鈴愛(すずめ)ちゃんの幼なじみの両親夫妻です。
 奥さんの和子(わこ)さん(原田知世さんが演じていました)は病気で亡くなるのですが、そのご主人の弥一さん(谷原章介さん)は奥さんが亡くなった後も一見穏やかに暮らしているように見えました。弥一さんの友人は、そんな弥一さんをみて、奥さんを亡くした悲しみを乗り越えたのだと思い「弥一さんは強いな」と声をかけます。それに対して弥一さんは、「そんなことはない。毎日泣き通しだよ。でも僕は、悲しみを乗り越えるのはやめたんだ。悲しみと共に生きていくんだ。」と言います。
 松本さんはこれについて「悲しみは克服する対象ではない。悲しみは大切な人との生活の証(あかし)であり、それ自体が今の自分の支えにさえなりうる、ということを教えています。」と書いておられます。
 私たちは、永遠に続く命というものはないのだということはわかっていながら、死にたくない、死というものを考えたくないと思い、大切な人を失いたくないと思いながら生きています。そのような私たちですから、前回の「半分、青い。」にありましたように、5年後の生存率が50パーセントだと告げられると、晴さんと違って苦しみ、絶望してしまいます。大切な人を亡くすと悲しみにとらわれてしまいます。
 しかし、松本さんが言われているのは、大切な人と別れるという悲しみを乗り越えようとするのではなく、弥一さんのようにその悲しみと共に生きていくことの強さだと思います。同じように死を免れることができないものだと受け止め、しかしそれに絶望することなく、目をそらして逃げるのでもなく、そのことと共に生きていく強さというものがあるのだということだと思います。

 その二つ目は、鈴愛ちゃんが幼い時に病気で片方の耳の聴力を失ったことに関してです。
 その後のドラマの展開の中で、彼女が聴力を失ったことは時々出てくるのですが、大きなエピソードになることはありませんでした。これについて、ネットでは「聴力障害の設定って必要だったの?」とか「伏線が回収されていない」といった反応(批判)があったのだそうです。実は私も、鈴愛ちゃんが耳が不自由なことはどうなったのかな、と思ったことがありました。
 松本さんは「これらの反応は、日本社会において障害が未だに「特別」であることを示しています。ドラマに障害者が登場すると、そこに何か「意味」があるのだろうと視聴者は身構えます。」しかし、「本作で聴力障害は、日常の一要素でした。」と記されています。
 「日常の一要素」という言葉は重い言葉だと思います。私たち一人ひとりはそれぞれ個性を持っています。一人ひとりの能力はそれぞれ違っていて、得意なこと、不得手なことがあります。
 障害に対してその態様に応じて必要な制度的なあるいは設備的な対応が必要だということは当然のことですが、そのうえで、私たちはその「日常」の中で障害というものを受け止めて、必要な行動が自然にとれるということが大切だと思います。ドラマの中でも、左耳が不自由だった鈴愛ちゃんに話をするときに、右側から話しかける場面がありましたが、そのような行動が自然にとれるというようなことが障害を「日常の一要素」とすることではないかと思いました。

 こうしてみますと、「半分、青い。」は色々なことを考えるヒントを持ったドラマでした。

(写真右は和子さん夫妻、左は、和子さん夫妻が子供の頃の鈴愛ちゃんと幼なじみと話をしているところです。)

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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