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495.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (17):上巻第五段(2)

20181221伝絵五段西本願寺本s    

 前回に続いて、『御絵伝』上巻第五段です。『御伝鈔』の文と訳文を載せます。
 
「おなじき二年閏(うるう)七月下旬第九日、真影(しんねい)の銘は、真筆をもつて、〈南無阿弥陀仏〉と〈若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生〉の真文(しんもん)とを書かしめたまひ、また夢の告げによりて、綽空の字を改めて、おなじき日、御筆(ごひつ)をもつて名の字を書かしめたまひをはりぬ。本師聖人(源空)今年七旬三の御歳なり。」

「その年の閏七月二十九日に、この画像の讃銘には、法然聖人の真筆をもって、「南無阿弥陀仏」の名号と、
  もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名を称せん。下十声にいたるまで、もし生れずは正覚を取らじ。かの仏いま現にまし 
 まして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すれば、かならず往生を得(う)。
という善導大師の『往生礼讃』に記された真実の言葉とをお書きつけになられました。しかもまた、夢のお告げによって、綽空という私の名を改めて、その日に、ご自筆をもって別の名前の字をお書きくださいました。法然聖人は、この年には七十三歳でした。」

 前回学びました部分では、親鸞聖人が1205年に、法然聖人から『選択本願念仏集』の書写を特別に許されたことが記されていました。法然聖人の念仏の教えに帰依されてから4年後のことで、さらにその写本に「選択本願念仏集」という内題の字と、書の肝要の言葉および「綽空」という名前を法然聖人ご自身の筆で記されたこと、さらに法然聖人の肖像画を書き写すことを許されたことが伝えられていました。

 今回の部分では、その出来上がった法然聖人の肖像画の写しに、法然聖人が「南無阿弥陀仏」の名号と、法然聖人が尊崇されていた善導大師のお言葉および「綽空」にかわる親鸞聖人のお名前(夢告によったもの)を自ら記されたことが伝えられています。

 平松令三氏はこの親鸞聖人が写され、法然聖人が讃を記された法然聖人の肖像について、様々な議論があるということを記されています。
 その一つが、法然聖人が「綽空」に変えて親鸞聖人に与えられたお名前は何だったのか、その要因となった夢告というのはいつのことだったのか、という点です。この新しい名前については、親鸞聖人もこの出来事を記された『顕浄土真実教行証文類』に記されておらず、従って覚如上人も『御伝鈔』に記されていません。
 この法然聖人の肖像画を親鸞聖人は大切に肌身離さずに持っておられたものと想像されますが、その肖像画は現在のところ見つかっていないそうで、そこに記された親鸞聖人の新しい名前を確認することはできません。

 一つの説は、この夢告は先にありました「六角堂」の夢告のことで、従って新しい名前は「善信」だとするものだそうです。
 この説に対して、平松氏は、親鸞聖人はこの出来事に先立って書写された『選択本願念仏集』に「釈綽空」の名前をいただかれたわけですから、夢告はその後、肖像画の写しに真筆をいただかれるまでの4カ月余りの間のことだとされます。
 そして、その新しい名前は「親鸞」だったと考えるべきだとされています。

 氏はその理由として、当時、名前というのは実名のことで、「善信」はいわゆる房号(ぼうごう)であって、実名ではないことを挙げておられます。『浄土真宗辞典』によりますと、房号とは、「僧侶を諱(いみな:実名)で呼ぶことを憚って居住する房室の名を称号としたもの。」であり、親鸞聖人の房号は「善信房」だとされています。
 親鸞聖人が出家されたときは「範宴(はんねん)」というお名前でしたが、その後「綽空」と名乗られました。そして、今回「親鸞」に改められたというのが平松氏の説で、その説が有力になっているということです。(ただ、同じ『浄土真宗辞典』の「親鸞」の項では、「法然の真影を図画し、夢告により綽空の名を善信とあらためたという。」とされています)

 新しい名前が何だったのかということは別にして、この第五段に記されている出来事を通じて、私たちは、法然聖人の教えに帰依された親鸞聖人が、短い期間に師である法然聖人の絶大な信頼を受けられるようになられたこと、また親鸞聖人がそのことを生涯を通じて感激をもって受け止めておられたことを知ることができます。

(図は、『親鸞聖人伝絵』(西本願寺本)の「選択付属」の段の絵です。)

 「伝絵」では、画面の左に親鸞聖人に『選択本願念仏集』を与えられる法然聖人、右に肖像画に筆を入れられる法然聖人が描かれています。この並びは前回載せました『御絵伝』と逆になっています。
 右の図で法然聖人は、ご自身の肖像の下の白い部分に筆を入れられていますが、このような様式で描かれた法然聖人の肖像画はまだ発見されていないのだそうです。
 また前回の図と比較しますと、前回の建物は今回のものに比べて非常に立派な建物として描かれています。「伝絵」の方が当時法然聖人が住んでおられた建物に近いのかもしれません。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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