FC2ブログ

492.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (16):上巻第五段

20181210御絵伝第五段自坊


 『御絵伝』は第2幅に入ります。右から2番目の幅で、今回も下から上に向かって見ていくことになります。
 今回の段は「選択付属(せんじゃくふぞく)」の段と呼ばれていて、親鸞聖人が法然聖人に帰依されて以降の出来事が記されています。

 『御伝鈔』の前半の部分について、原文とその訳を見てみます。

 「黒谷の先徳 源空 在世のむかし、矜哀(こうあい)のあまり、あるときは恩許を蒙(こうぶ)りて製作を見写し、あるときは真筆を下して名字を書きたまはす。すなはち「顕浄土方便化身土文類」の六にのたまはく、親鸞上人撰述「しかるに愚禿(ぐとく)釈鸞(しゃくのらん)、建仁辛酉(かのとのとり)の暦、雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願に帰し、元久乙丑(きのとのうし)の歳、恩恕(おんじょ)を蒙りて『選択』(選択集)を書く。おなじき年初夏中旬第四日、<選択本願念仏集>の内題の字、ならびに<南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本>と、<釈綽空>と、空(源空)の真筆をもつてこれを書かしめたまひ、おなじき日、空の真影申し預かり、図画したてまつる。」

 「むかし比叡山黒谷で修行せられた先師法然聖人がご在世だったころ、親鸞聖人はたいへんお慈しみをいただいて、あるときはめぐみ深いお許しを得て、ご著作の『選択集』を書写させていただきましたし、あるときはご自筆で聖人の名前を書いていただきました。そのことは、親鸞聖人ご撰述の『顕浄土真実教行証文類』の第6巻「化身土文類」に、次のように書かれています。
  わたくし、愚禿釈親鸞は、建仁元年辛酉の年(1201年)、自力修行の雑行を棄てて、阿弥陀如来の本願に帰依し、元久2年乙丑の年(1205年)、法然聖人の特別のお許しをいただいて、『選択集』を書き写しました。そしてその年の4月14日、その本に「選択本願念仏集」という内題の字と、「南無阿弥陀仏、往生の業には念仏を本とす」という言葉、それに「釈綽空」という私の名とを、法然聖人の真筆でお書きいただきました。またその日、法然聖人の肖像画をお貸しいただき、それをもとにして画像を描かせていただきました。」


 この部分では、親鸞聖人が法然人よりそのご著作である『選択本願念仏集』の書写を許され、その本に法然聖人ご自筆の言葉および「釈綽空」という名前を記していただいたこと、また法然聖人の肖像画をお借りして画像を書写させていただいたことが述べられています。
 訳文にありますように、親鸞聖人が自力修行の道を棄てられて法然聖人の許に加わられたのが、1201年29歳のときでした。そして、この『選択本願念仏集』を書写し、法然聖人の肖像画を書き写すことを許されたのが、その4年後、聖人33歳の時でした。

 法然聖人は主著『選択本願念仏集』を一般に公開することを禁じられました。法然聖人はこのご本の中で、念仏のみが今の時代にふさわしい法門であると主張されたのですが、これは当時の在来の仏教を否定する主張であり、これに対する反発が予想され、弾圧を受ける可能性が大きかったことによります。
 従って、法然聖人は限られたお弟子さんにのみ『選択本願念仏集』の書写をお許しになり、平松令三氏によれば書写を許されたお弟子さんは親鸞聖人を含めて10人前後だとされています。

 法然聖人の門下に加わられてからわずか4年の親鸞聖人がその書写を許されたということは、親鸞聖人に対する法然聖人の信頼が極めて厚かったのだといえます。さらに法然聖人は、親鸞聖人にご自身の肖像画を写すことも許されました。
 『御伝鈔』にありますように、親鸞聖人はこのことを『顕浄土真実教行証文類』に記されています。平松氏によりますと、親鸞聖人がご自身の体験について記されることは極めて稀なことだということですが、その聖人が『選択本願念仏集』の書写と法然聖人の肖像画の書写について十年以上経過した後にも記されているということは、これらのことが親鸞聖人にとってなにものにも代えがたい大きな喜びであったことだと思われます。

(図は、自坊の『御絵伝』第五段です。)

 右には親鸞聖人が法然聖人より『選択本願念仏集』を受けられる場面、左には法然聖人の肖像画に讃文をいただかれている場面が描かれています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

カウンター
カテゴリ
検索フォーム
リンク
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR