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484.歴史を訪ねる(13):壽福寺の歴史(3)

20181112蓑島2  20181112蓑島   

 「壽福寺の歴史」の3回目となります。前回は壽福寺の開基が、1551年の大寧寺の変に続く争いの結果、信田之丸城主の杉重輔の弟と思われる人物が寺に入ったことによるという説でした。
 今回の説は、豊前松山城主で、その後毛利氏に謀反をおこし討死した杉重良(重輔の長男です)が関わるという説です。

 以前にも触れました『防長風土注進案』(1840年代に藩の求めにより、防長の各村について情報をまとめたものです)に、壽福寺の開基に関する情報が記載されています。以下、それを抜粋してみます。(旧字は新しい字に置き換えました)

 「真宗融光山 壽福寺   黒五郎村ニ(に)有
 (以下、本堂、本門などに関する記述があります)
  開基浄願ヨリ現住顕実迄拾世
  寺伝二云、当寺開基俗性(姓)ハ(は)大内之家臣杉伯耆守重良当地信田之城ニ居住之處、大内没落之後遁世して本願寺准如上人之弟子ニ成、帰国已後福寿院と申真言宗之古跡小草庵を再興之志願有りといへとも不得其時、然るに一子浄専事蒙御國許寛永九年申年一宇建立寺号壽福寺と改、其後真宗無怠転寺続罷在候
 (以下、宝物などに関する記述があります)」

 この記述によりますと、「壽福寺の開基浄願は杉重良が大内氏が没落した後に遁世して本願寺の准如上人の弟子となったもので、帰国後に福寿院という真言宗の草庵を再興しようとしたが果たせず、その子浄専が寛永九年(1632年)に国許を得て一宇を建立、寺号を壽福寺と改めた」とされています。
 
 ここでは、開基の浄願は、杉重良が遁世して准如上人の弟子となった、ということになります。ここで関連する人物と出来事についてその記録を確認しておくと次のようになります。

 天文20年(1551年)大寧寺の変。大内義隆、陶晴賢に滅ぼされる
 天文21年(1552年)杉重矩、厚狭において自刃。信田之丸城落城、城主杉重輔、山口に敗走
 弘治 2年(1556年)杉重輔、山口において自刃
 永禄10年(1567年)開祖浄願示寂(寺の過去帳、『防長寺社由来』などより)
 天正 7年(1579年)杉重良、豊前蓑島で討死(その後落ち延びたという説もあり)
 寛永 9年(1632年)良如上人より壽福寺の寺号を賜る

 これで見ますと、開基の浄願師は杉重良が蓑島で討死する12年前に示寂していることが分かります。これからしても、重良本人が遁世して京に上ったとは考えられないように思います。また、准如上人がご門主に就任されるのは1593年のことですから、このことからも重良=浄願師とは言えないようです。

 ここで思い出しますのは、以前にご紹介した「歴史と文化・史跡 万倉」という観光マップです。その中で、壽福寺の開基について次のように紹介されています。
 「浄土真宗、融光山壽福寺は開祖浄願(杉重長の一族)が永禄元年(1558年)開山。」
 これまで、壽福寺の開基を永禄元年とする資料を見たことがないのですが、これならば1567年の浄願師の示寂とも矛盾せず、また、前回ご紹介した信田之丸城の落城と壽福寺開基を関連づける説にも合致しそうです。

 杉重長という名前の人物(重長は重良と同一人物だという説もあるようです)とともに、この説についても調べてみたいと思います。
 
(図と写真は、杉重良が討死したとされる蓑島です。図は「行橋市歴史資料館」でいただいたもの、写真は10月22日に撮影したものです)

 蓑島は元々は独立した島だったのですが、昭和に入って埋め立てにより地続きになったということです。かつては、北九州から国東半島にいたる間で唯一、人が住み飲料用の水に恵まれていた島(港)で、そのようなことから、戦時は攻防の要だったようです。
 島には南北に3つの小高い山が連なっていて、一番北の蓑島山(写真に見える山です)に城が築かれていたと考えられるということですから、松山城から移った杉重良はこの城に拠って毛利勢と戦ったと思われます。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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