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483.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯 (13):上巻第三段 (5)

20181109法隆寺阿弥陀三尊2         20181109法隆寺阿弥陀三尊s

 上巻第三段の最後の部分に入ります。
 少し長くなりますが、『御伝鈔』の第三段、最後の部分の御文と訳文を記します。

 「そもそも、また大師聖人源空もし流刑に処せられたまはずは、われまた配所におもむかんや。もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか辺鄙(へんぴ)の群類を化(け)せん。これなほ師教の恩致なり。大師聖人すなはち勢至の化身、太子また観音の垂迹(すいしゃく)なり。このゆゑにわれ二菩薩の引導に順じて、如来の本願をひろむるにあり。真宗これによりて興じ、念仏これによりてさかんなり。これしかしながら、聖者の教誨(きょうけ)によりて、さらに愚昧(ぐまい)の今案(こんあん)をかまへず、かの二大士(にだいじ)の重願、ただ一仏名を専念するにたれり。今の行者、錯(あやま)りて脇士(きょうじ)に事(つか)ふることなかれ、ただちに本仏(阿弥陀仏)を仰ぐべし」と云々。かかるがゆゑに上人親鸞、傍(かたわ)らに皇太子を崇(あが)めたまふ。けだしこれ仏法弘通(ぐずう)のおほいなる恩を謝せんがためなり。

 「そもそも法然聖人がもし流罪という刑罰を受けられなかったら、私もまた流罪にされて配所に赴くこともなかったであろう。もし私が配所に行かなかったら、田舎の人びとをどうして教化することができただろう。これは全く師法然聖人の御恩のいたすところである。
 法然聖人はまさに勢至菩薩の化身であり、聖徳太子は観音がこの世に現れたもうたお姿である。だから私はこの二人の菩薩のお導きにしたがって、阿弥陀如来のご本願を弘めるしかないのだ。真宗はこれによって興隆し、念仏はこれによって盛んになるのだ。これはすべて悟りを開いた人びとの教えによるだけであって、決して愚かであいまいな自分の考えをふりかざそうとせず、観音・勢至二菩薩の大きな願いである南無阿弥陀仏の御名をただただ念ずるだけなのだ。修行者たちよ、誤って脇士の二菩薩に仕えるようなことは決してせず、直接に阿弥陀如来を仰ぎ信じなさい。」
 と。ですから親鸞聖人は、阿弥陀如来のかたわらに聖徳太子を安置してうやまわれたのです。これは仏法を弘められた太子の恩徳に感謝を捧げるためだったのです。


 前回に引き続き、覚如上人は、後に親鸞聖人が仰った言葉を記されます。
 前回、親鸞聖人は聖徳太子が仏法を日本に広められたとご恩を讃えられました。今回、親鸞聖人は、師の法然聖人とともに被られた法難により流罪になられたことを、東国の人々にみ教えを弘め、真宗が興隆する機縁となったのだとされ、これは法然聖人からいただいたご恩だと讃嘆されます。
 親鸞聖人は、聖徳太子と法然聖人をそれぞれ観音菩薩、勢至菩薩がこの世に示現された姿だと讃えられ、この両菩薩が仕えられている阿弥陀如来だけを仰ぎ、御名を念ずるようにと説かれた、と覚如上人は記されています。

 前回触れました『伝絵』の制作順にも関わってくるのですが、『御伝鈔』では、「親鸞聖人が法然聖人の許を訪ねられたのは建仁元年聖人29歳のとき、六角堂の夢告を受けられたのは建仁3年癸亥(みずのとのい)のとき」(西本願寺本『伝絵』も)と記されています。この部分は、『伝絵』によっては、「建仁3年、聖人29歳のとき法然聖人を訪ねられ、夢告は建仁3年辛酉(かのとのとり)に受けられた」とするもの(専修寺本など)もあり、西本願寺本の記述の方が少数派なのだそうです。
 聖人が法然聖人を訪ねられたのは、「建仁元年、29歳のとき」であり、また「建仁3年は癸亥」が正しいので、当初の『伝絵』で誤って記されたものがその後修正されたのではないか、と考えられているようです。平松令三氏は、前回の救世菩薩の姿(立像、坐像)も併せて、専修寺本の方が西本願寺本よりも古い形を伝えている、という説の根拠となっているとされます。
 
(写真は、法隆寺に伝えられている阿弥陀三尊像です。ネットからお借りしています。)

 橘夫人の念持仏と伝えられている、左右に観音菩薩、勢至菩薩の立像を伴った阿弥陀如来の坐像です。
 橘夫人は、藤原不比等の妻で、後に聖武天皇の妃となる光明子の生母です。
 
(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 
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