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467.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(7):上巻第二段

20180914第二段自坊

 『御絵伝』は上巻の第二段に入ります。親鸞聖人が法然聖人を訪ねられる、「吉水入室」と呼ばれている段です。

 『註釈版聖典』により『御伝鈔』の文の前半を見てみます。

「建仁(けんにん)第一の暦(れき)春のころ 上人二十九歳 隠遁(いんとん)のこころざしにひかれて、源空聖人の吉水の禅坊にたづねまゐりたまひき。これすなはち世くだり、人つたなくして、難行の小路(しょうろ)迷ひやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。」
 (建仁元年(1201年)の春、29歳の親鸞聖人は隠遁の志にひかれて法然聖人の吉水のご住坊(草庵)を訪ねられました。これはお釈迦さまが入滅されてから2000年以上がたち末法の世の中になった今、人々の資質も劣弱になって、難行である自力の修行ではまどうことが多く、易行である他力の道を進もうとされたからです。)

 この段では、親鸞聖人が29歳のときに法然聖人の弟子になられたことが記されています。
 この事実は、聖人ご自身も『教行信証』(「化身土巻」の後序)で「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑業を棄てて本願に帰す」と述べておられますので間違いのないことです。
 では、なぜ20年間の比叡山での学問、修行を棄てて法然聖人の元に向かわれたのでしょうか。『御伝鈔』では、このことについては、「隠遁のこころざしにひかれて、」とだけ記されています。

 この「隠遁」という語は、「世の中をのがれること」(大修館「新漢和辞典」)とか「俗世間をのがれた生活をすること」(岩波「国語辞典」)とされています。しかし、親鸞聖人は9歳のときに出家されていますので、すでに「俗世間をのがれ」ておられるのですが、ここでさらに「隠遁」されたと『御伝鈔』では述べられているということになります。

 これについて、親鸞聖人は、当時の比叡山が俗世間と同じように俗化していたことに不満を持たれて、吉水の法然聖人を訪ねられた(再度の「隠遁」)のだとする理解がされていたこともあったということです。

 これに対して、前回にご紹介しました『恵信尼消息』の文章がそれとは違う解釈をもたらしたと、赤松敏秀氏や平松令三氏は示されています。
 恵信尼公は次のように記されています。
 「殿の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世のこといのりまうさせたまひける・・・」このように、比叡山で堂僧として学問、修行に励んでおられた親鸞聖人は、山を下りられて六角堂に百日の間籠られた、と恵信尼公は伝えられます。

 平松氏はこのことを、聖人が比叡山に不満を持たれて、新たな修行の場として六角堂を選ばれたということではなく、聖人ご自身が抱えておられた問題を解決したいと百日の間籠られたと理解するべきだと、されます。氏は、「いくら修行しても消え去ることのない煩悩、それが強い挫折感となって、聖人に比叡山を捨てる決意をさせたのではないでしょうか。」と記されています。

 六角堂は当時も都の中心部にあって、聖徳太子の創建と伝えられお寺なのですが、都の喧騒の中で修行をするような場所ではなかったようです。ただ、当時も様々な願いをもって参籠する人が多くあったお寺だったようです。それでも参籠の期間はせいぜい3日とか10日が普通で、聖人のように百日にも及ぶのは極めて珍しいことで、聖人がこの参籠にかけられた強い意思、すがるような思い、が伺われると平松氏は言われます。

(図は、上巻第二段です。『御絵伝』の第一幅の下から3番目の絵に当たります。)

 今回も左右に二つの場面が描かれていますが、今回は右から左に見ていきます。右の図は、親鸞聖人が法然聖人の住坊に入られるところ、左では、法然聖人と対面されています。
 白い衣に白い袈裟を着けておられるのが親鸞聖人です。右の図にありますように、聖人に従って来た供のものが5人見られますが、これも少しオーバーな表現になっているようです。また、法然聖人の「草庵」も立派な邸宅として描かれています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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