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461.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(5):上巻第一段(3)

20180824第一段(2)自坊

 
御絵伝の第一段の続き(『御伝鈔』の上巻第一段の2番目の段落の後半に当たります)です。
 現代語訳で見てみます。

「範綱卿はこのころは従四位上という位で、若狭守の役職は降りていましたが、後白河上皇に側近として仕えていました。慈円は歿後は慈鎮和尚(じちんかしょう)とも呼ばれた人で、父は関白藤原忠通(ただみち)、兄には九条兼実(かねざね)がいます。聖人はその慈円の住房で髪を剃り落し、僧となられたのでした。法名は範宴(はんねん)、号を少納言公と申しました。


 聖人は、伯父であり養父でもあった日野範綱卿に伴われ慈円僧正と対面され、得度の式を受けられました。
 慈円僧正(慈鎮は歿後に贈られる諱(いみな)です)は関白の藤原忠通を父に持ち、後に朝廷で権力を持つ九条兼実卿を実兄に持つ人です。僧正は聖人が得度を受けられたときは27才だったと伝えられますが、すでに千日回峰行をなしとげ、後には4回も天台座主という最高位につかれた人でもあります。

 聖人が得度の式を受けられた場所は京都の粟田口の「青蓮院(しょうれんいん)」であったと伝えられています。
 この点について平松令三氏は、当時の青蓮院は比叡山の山上にあったことから、得度の式は当時慈円僧正が住んでおられた「白川坊」で行われたされます。この白川坊は、現在「青蓮院」がある辺りにあったということですから、場所としては現在の「青蓮院」だったと言っても間違いではないということになりそうです。

 このとき聖人が慈円僧正とお会いになられたのが夕刻だったことから、慈円僧正は得度の式を翌日にするようにと言われたと伝えられています。これに対して、聖人は「明日ありと思う心の仇桜(あだざくら) 夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」という古歌をひかれてすぐに式を受けたいと訴えられ、その結果、当日の夜に式が執り行われたという逸話が伝えられています。
 ただ、この逸話は後代に加えられたものだという見方もあるようです。

(図は、御絵伝の第一幅の2番目の絵です。)

 左の絵には、聖人が慈円僧正と対面されている様子が描かれています。白い装束の少年が9歳の聖人、朱色の僧衣が慈円僧正です。
 右の絵には受式の様子が描かれていますが、式が夜に行われたことを示すように蝋燭が描かれています。現在も、本山での得度式は蝋燭の光の下で行われます。厳粛な雰囲気の中で聖人のご得度の様子を偲ぶことができます。

 このように、今回は2つの場面が一枚の絵に描かれていますが、このような描き方は絵巻などでよく使われる手法なのだそうです。
 そのような場合でも、絵巻物ですから普通は右から左に見ていくことが多いのだそうです。今回の絵では流れは左から右に移りますが、岡村喜史氏によれば、これは「青蓮院」の部屋の配置が図のようになっていたことから、それに合わせて左から右に場面が移るようになっているようだ、とされています。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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