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459.歴史を訪ねる(12):豊前松山城

20180817豊前松山城   20180817豊前松山城2

 8月15日に豊前松山城の城跡を訪ねました。ちょうど近くの行橋市でお盆のお勤めをする機会がありその帰りに訪ねることができました。
 豊前松山城は、万倉の杉氏が守護代として統治居城していた城で、城主だった杉重良が毛利氏に謀反を企てたことにより、杉氏とのつながりが終わりとなった城です。

 城跡は、福岡県京都郡(みやこぐん)苅田町、東九州自動車道から北九州空港に向かう道路の右側にある小高い丘にありました。
 当日は台風15号が九州を通過した日で、午後3時頃、城跡に登ろうと駐車場で布袍の姿から山歩きの服装に着替えたところで雨が降り始めました。台風が通過してから初めて雨が降り始めるという妙な空模様で、登っている間ずっと強い雨という誠に残念な天候でしたが、登り口から頂上への往復の道を歩くことができました。

 登り口に城跡を説明する案内板があり、その説明によりますと、松山城は古く天平12年(740年)に藤原広嗣の乱に当たって築城された豊前国第一級の要害の山城だったということです。山頂に主郭を持ち、ニの郭、三の郭、石垣、土塁、横堀なども備えた「まるで、松山の半島全体を難攻不落の要塞としてつくりあげた」ような山城であったと記されていました。
 標高は128メートルとそんなに高くはないのですが、登り道は急な傾斜をそのまま登る「直登」で、雨の中を息を切らせながら登りました。往時の登り道もそうであったのか分かりませんが、これだけでも「難攻不落」だっただろうと想像されるものでした。

 当日は雨で見通しは良くなかったのですが、頂上から眺めると足元には日産自動車やトヨタ自動車、三菱マテリアルなどの工場群があり、周防灘を隔てて向こうには小野田、宇部の海岸を見ることができました。現代の私たちは九州へ行くというと、関門橋を渡って、と考えてしまいますが、当時では直接海路で行き来するのが当然のことだったのだ、と改めて気づかされました。

 豊前松山城は天平の築城以降、九州を攻略する拠点として多くの戦の場になったと伝えられています。大内氏、毛利氏ともに九州への政略拡張を目指して松山城に拠って当地の大友氏などと抗争を続けました。その守護代として任じられたのが杉氏だったのですが、その時の戦況により攻め落とされたり、また入城したり、と目まぐるしく城主が変わり、まさに度重なる戦略と謀略の場となっていたということが分かります。

 現在は周辺は埋め立てられていますが、説明にも「松山の半島」とあるように、城は海に突きだしたような山城だったのではないかと思います。謀反を企てて城を出た杉重良が入ったとされる蓑嶋城跡や防長との行き来に使われた港(現在の苅田港は九州でも重要な拠点港となっているようです)など周辺も含めて、天候のよい時期にもう一度見てみたいと思っています。
 
(写真は当日の城跡の様子です)

 左は城山の全景です。山の反対側では土砂を採取しているようで、大きく削り取られていました。右は山頂に至る石段です。往時の姿を残しているようです。いずれにしても当日の悪天候でよい写真ではありません。こちらも再訪に期待しましょう。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
 
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