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460.御絵伝に見る親鸞聖人のご生涯(4):上巻第一段(2)

20180820第一段(1)自坊

 御絵伝の本文に入って2回目です。

 本日の部分を『御伝鈔』の現代語訳で見てみます。

 「ですから聖人は、朝廷に仕官して天皇の御側(おそば)近くに仕えたり、仙洞御所(せんとうごしょ)の中を忙しく走りまわったりして、高い地位に昇り、栄華をきわめるべき人であったのでしたが、仏法を興し、衆生に利益を与える因縁が内外に芽ばえたのでしょう、数え年九歳の春に、伯父で養父になっていた従三位日野範綱(のりつな)卿につれられて、前大僧正慈円(じえん)のご住房へうかがいました。」

 前回の部分で、聖人の父有範卿は藤原氏の流れをくむ貴族で、皇太后宮で大進という役職を勤められていた、ということが記されていました。今回そのことを受けて、聖人は貴族としても高い地位に就かれる境遇にあったということが述べられます。
 しかし、聖人は数え年九歳にして「仏法を興し、衆生に利益を与える因縁が内外に芽ばえ」伯父で養父の日野範綱卿に伴われて、慈円師のもとを訪ねられ、剃髪、出家されました。治承5年(1181年)のことです。

 ここでまず、「仏法を興し、衆生に利益を与える因縁が内外に芽ばえ」(『御伝鈔』には「興法の因うちにきざし、利生の縁ほかに催ししによりて、」と記されています)というのはどのような背景があったのでしょうか。
 聖人が出家された当時の状況を見てみますと、治承4年(1180年)、以仁王(もちひとおう)が源氏と組んで平氏に対抗した以仁王の乱が起きます。乱は以仁王の敗北に終わりますが、これを皮切りに約6年続く「治承・寿永の乱」の結果、源氏が平氏を倒し覇権を握ることになります。また、養和元年(1181年)から翌年にかけて大飢饉が発生します。これも天災と併せて源氏の反乱による社会的な混乱も飢饉の原因とされています
 このように当時は、社会全体が平安時代の貴族社会から、平氏の覇権、源氏の勃興、源氏による武家統治の確立という動乱の只中でした。それに天災も加わり、騒然とした社会状況にあったと想像されます。
 そのような中で、聖人のご出身の日野家は、以仁王とかかわりがあったこともあり、王の乱が失敗したことによりその地位はいよいよ弱くなったようです。
 さらには、日本では永承7年(1052年)に末法の時代が到来したと考えられており、その後のこのような世情の動乱、困難はいよいよ不安の影を濃くしていったものと思われます。

 このような騒然とした社会環境と日野家の状況の中、聖人は伯父である日野範綱卿の養子となり、範綱卿に付き添われて出家されることになりました。聖人には3人のご兄弟があったと伝えられていますが、聖人を含めて4名全員が出家されたと伝えられています。このようなことは極めて異例なことのようで、当時の日野家が置かれた困難な境遇を表しているのかもしれません。

(図は、寺の御絵伝の第一段の最初の場面です。)

 4幅の御絵伝をお掛けしたときに、一番右の幅の一番下の絵が今回の場面になります。以前お話ししましたように、一般の御絵伝は一番右の幅の下から上に向かって見ていき、ついで右から2番目の幅を再び下から見るという見方をします。
 それぞれの場面を表している絵の間に、雲形の霞のようなものが描かれていますが、これは「すやり霞」と呼ばれるそうです。このすやり霞も御絵伝が制作された時代によって様式が違っていて、それで御絵伝の制作時期を判定できるのだそうです。

 前回記しましたように、寺の御絵伝は宝永5年(1708年)に本願寺第14世寂如ご門主より授与されたものと伝えられています。1708年といいますと、徳川綱吉将軍の時代ですが、この御絵伝の「すやり霞」は、形が複雑で白い輪郭が描かれているなど江戸時代の御絵伝の特徴を備えているということです。

(このブログは毎週2回、月曜日と金曜日に新しい記事を載せる予定ですので、また覗いてみてください)
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